三重県総合文化センター ブログ

「そうぶんの竹あかり」開催しました!

今回初のイベント「そうぶんの竹あかり」は、2017年11月22日(水曜日)から12月3日(日曜日)まで開催しました。
竹あかりのあたたかな光と色づいたもみじがフレンテみえ裏の日本庭園を幻想的な世界に創り上げました。

◆竹あかりの搬入スタート

準備1

写真は、竹あかり作家の川渕皓平さん。
慎重に作品の配置を進めていきます。
キャンドルではなくLEDライトが竹の中で点灯する仕組みなので、配線も同時に進めていきます。
川渕さんと職員8名が、常に作業を共にしました。

準備3


朝から始まった搬入と設置作業は、日が落ちて外が暗くなってからも続きます。
少しづつ浮かび上がる全体像に、わくわくしながら作業を進めました。

◆来場者数、延べ4,000人を超えた「そうぶんの竹あかり」

11月22日(水曜日)に幕開けした初開催のイベント「そうぶんの竹あかり」。開催期間11日間の来場者数は、延べ4,000人を超えました!!
ゆっくりとカメラと向き合う方、ワンちゃんと一緒にお越しの方、当センターで実施された催しと合わせて観にいらした方、ご家族連れやまたお友達同士と、たくさんの方に足をお運びいただきました。
寒い中お越しいただき、みなさまありがとうございました。

竹あかりの様子
竹あかり全体写真

◆竹あかり作家・演出家 川渕皓平さん

作品制作と会場演出を手掛けたのは、竹あかり作家・演出家の川渕皓平さん。
今回のイベントでは、夏に実施した「M祭!2017 キッズ・アート・フェスティバル」内のプログラムで、川渕さんと子どもたちが一緒に制作した竹あかり作品も展示しました。

<アーティストプロフィール>
川渕 皓平 
Kohei Kawabuchi

1985年奈良県生まれ。三重県伊賀市在住。
canaarea代表。

2016年三重県内で開催された5月の「伊勢志摩サミット」、9月の「みえレインボーフェスタ」、11月の「海女サミット」で会場を彩った“竹あかり”の制作・演出に関わる。
また、2017年6月1から3日まで、伊勢市で開催した伊勢志摩サミット1周年記念イベント「わわわっしょい!in伊勢志摩」の実行委員長を務め、灯り制作指導・総合演出も手がけた。
2017年8月6日(日曜日)に実施した「M祭!2017 キッズ・アート・フェスティバル」では、子どもたちと一緒に竹あかり作品を制作し、「そうぶんの竹あかり」でも展示した。
また、2017年12月から台湾・台東県内に滞在して芸術交流を行う台東県政府文化処主催の「日台芸術家交流事業」として、書道家 伊藤 潤一と共に、台東県にて芸術交流活動を行う。

◆開催期間中のスペシャルイベントを少しご紹介!

「そうぶんの竹あかり」開催期間中には、スペシャルイベントも実施しました。

◇11月24日(金曜日) 三重県総合文化センターで初開催の「M-PAD」

M-PAD林英世さん

[M−PADって?!]
「おいしくてあたらしい料理と演劇の楽しみかた」として2011年から晩秋の三重の催事として始まったM-PAD。
 三重県内の「おいしい!」お店で自慢の料理を楽しむ。文学・古典作品を俳優の声や身体を通してご覧頂き楽しむ。見終わってから料理や作品を語り合って楽しむ。お店と全国から選りすぐった俳優たちのコラボレーション。素敵なお店で実施しているこの企画。

今年は、初めて三重県総合文化センター内で開催し、カフェ・レストランCotti菜でお食事を、そして竹あかりを舞台に屋外にて上演しました。M-PADのチケットは早々に完売しました。

◇11月25日(土曜日) 新日本フィルハーモニー交響楽団の楽団員による弦楽四重奏のミニコンサート

ミニコンサート写真


この日は、大ホールで「久石譲指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団特別演奏会」の開催日でした。コンサート終了後に、新日本フィルハーモニー交響楽団の楽団員による弦楽四重奏のミニコンサートをフレンテ1階の特設会場で実施しました。

1階は立ち見が出るほど満席に、そして2階の通路までお客様が並びました。
フレンテ1階は、素敵な音色に包まれました。

◇11月25日(土曜日) お茶処なごみ 特別営業「夜なごみ」

夜なごみ写真


フレンテみえ1階には、御園棚や野点傘をしつらえました。
竹あかりを窓ガラス越しに眺めながら、お菓子とお抹茶を味わっていただく、特別な夜営業となりました。

そうぶんの竹あかり 詳細ページへのリンク

「harunachicoさんの冬の窓アート」完成!

2017年12月17日(日曜日)アートショップMikke(みっけ)にて「harunachicoさんの冬の窓アート」ライブペインティングを開催しました。当日の状況をお届けします。


朝10時
まずはヤグラに乗って右上からスタート。
「浮かんだものを描き始めると、描きたいものがどんどん浮かんでくる。」呼吸をするように筆を運んでいくのがharunachicoスタイル。

下絵もなければ、これを描く!という決まりはない。

普段の作品作りでは筆を使用しないharunachicoさん。
『筆で白一色、時間制限あり』という今までにはないスタイルでの新たな挑戦、まさに、窓アートという名の「アドベンチャー」が始まった。


12時
少しずつ絵が出来上がってくる。筆に加えてローラーも使い始める。ローラーで描くと、同じ白でも濃淡が出てきて面白い。
少しずつ「harunachicoの世界」が広がっていく。


14時
左側の窓を描き始める。
「今何描いてるのー?」「犬がいるー!」
「猫!」「うさぎ!」「雪だるまだー!」
 子どもたちからの声をうっすらと耳にしながらも、筆が止まることがないharunachicoさん。
 動物好きのharunachicoさんの作品には動物がたくさん登場する。
 

テスト

16時
はしごから降りて、全体を俯瞰しながら描き足していく。
終わりの時間が近づいてくる。
「もう少し!がんばれ harunachico さん」
16時15分
「完成!」harunachicoさんの優しい声が聞こえると、観客のみなさんから暖かな拍手が起こった。

休憩もほとんどとらず6時間。「窓アート」と向き合ったharunachicoさん。小さい体から満ち溢れるエネルギー。
その姿をずっと見ていた男の子からは、「僕も絵描きさんになるー!」という声が。大人が生き生きと絵を描いている姿は、どのように映ったのでしょうか。

harunachicoさんの窓アート。

タイトルは、「はしごの上の冬ごもり」

2018年2月12日(月曜日・祝日)まで展示しています。

日が落ちてから、白く浮かび上がる窓アートもおすすめです。

アートショップMikkeでは、窓アート展示期間中限定で、harunachicoさんの作品の展示販売をしています。時間をかけて丁寧に作られた作品は、すべて一点もの。是非窓アートと一緒にお楽しみください。
また、窓アートの写真をとって「#harunachico」「 #アートショップMikke」をつけてSNS投稿をしていただいたお客様には、先着200名にharunachicoオリジナル缶バッジをプレゼント。投稿画面をアートショップMikke店頭でご提示ください。

アートショップMikke

●harunachicoさんの冬の窓アート

2018年2月12日(月曜日・祝日)まで
展示場所:文化会館1階 アートショップMikke(みっけ)

harunachicoさんの冬の窓アート詳細ページへのリンク


 

オイスターズ「君のそれはなんだ」稽古場レポート

この12月、三重県文化会館小ホールに初登場する、名古屋の劇団オイスターズ。
来年結成10周年を迎える彼らの特徴は、何と言っても会話の面白さ。 舞台セットや音響・照明を極力とっぱらって、まるで落語のように、会話だけでどんどんゆる〜い世界に引き込んでいく、脱力系演劇です。
昨年第61回岸田國士戯曲賞の最終候補にノミネート、今年9月に行われたばかりの短編演劇の祭典「劇王?〜アジア大会〜」でも第11代劇王に輝いた、作・演出の平塚直隆さんが放つセリフは一級品。今回は、その稽古初日にお邪魔しました。
稽古場では、台本会議が行われ、出演者のやりたい役や演じてみたい状況を聞きながら、どんどん話が展開していきます。プロット(話の展開)は決めずに、まず最初の設定ありきで、そこから何回か書き直し、しっくりきたら一気に書き進めるスタイル。特に今回は最初の設定の面白さが最大のポイントになりそうとのことで、会議の中でも最近見たコントの話題が。 また、これまでも舞台上の一人がその場を動かずに、周りの人間だけが動いて話が進んでいくなど、作品の構造の面白さにも挑戦してきたオイスターズ。今回も演劇ならではの試みが期待できます。

オイスターズ

作・演出の平塚直隆さんへインタビュー

■まず、今回のタイトル「君のそれはなんだ」について教えてください。

 最初、面白そうな言葉だけをいくつか出して劇団員に見せて投票してもらうんですよ。そうやって決まったものを僕は書くって言ってるんです、いつも。 僕の中に書きたいものは普段ないので、もう書くってならないと書けない。偶然の産物じゃないですか、皆で決めたものだから。そういう偶然のほうが自分の思ってもみない、発想にないものが書けるんじゃないかって。最初「お前の靴はどれだ」になったんです。でも、ちょっと言葉が強いな、もっと曖昧にでふわっとできないかなと思って。「お前の靴はどれだ」→「お前のそれはなんだ」→「君のそれはなんだ」…あ、これいいね!という感じで決まったんです(笑)。この前書いた「無風」というタイトルも何も起こらない作品で、どうも今年は曖昧な、不確かなものが書きたいみたいです。

■いつもチラシにあらすじのようなものを書かれていらっしゃいます。それは、タイトルから連想してまず書いてみるということでしょうか?

あらすじみたいに思われたりするんですが、僕の中では練習書き。どういう肌触りなのかなということを確かめるためにつらつらと書くんです。「ここはカナダじゃない」も、全て話が終わった後のことを書いているし、きっとどっかにはつながってくるんだろうなというのはあるんですが、あらすじそのものではないですね。今回は冒険みたいなことがしたいと思っていたので、チラシのような文章になりました。

■昨年の岸田戯曲賞最終選考の際のように別役さんに触れて評されることが多いですが、影響を受けた人や物は?

それはもう圧倒的に別役実さん※1と北村想さん※2ですね。学生時代に自主映画を撮っていたんですが、シナリオってどう書くのかなと思って。学校の図書館に行ったら、シナリオと戯曲の欄というのがあって、そこに別役実さんと北村想さんの本しかなかったんです。だから僕はあれがシナリオだと思っていて。それで読んだらこれは戯曲っていうんだ、演劇の本なんだとわかって。でも面白かったんですよね、最初に読んだのが。想さんの本だったと思うんですが。僕はそもそも演劇って児童劇でしか見たことなかったので、これどうやってやるんだろうって。本の巻末を見たら、北村想さんが今名古屋に在住してて、プロジェクト・ナビっていう劇団をやっているって知って。それで、大学卒業して、プロジェクト・ナビに入りました。その時に北村想さんも別役実さんも全部読みましたね。なんだ、この不思議な感じって。それがあるので、別に別役さんを真似してというわけではないんですが、僕が面白いと思うものを書いたら、自然と別役さんみたいになっちゃう。

■不条理劇を書いているという認識はありますか?

ないですね、それは。長いコント書いてるみたいな。不条理劇よりナンセンス・コメディのほうがしっくりくる感じです。韓国公演をした時にも言われました。不条理劇って書くと難しいと思われるから、韓国のお客さんは来ないから、ナンセンス・コメディって書いたほうがいいよって(笑)。

■最初は映画を撮られていたのとことで、演劇を始めて違いはありましたか?

映画は一人だけの作業だなって。自分が面白いと思うものに確実に自信があって、こうしたい!って思うものがあれば映画のほうが合ってると思います。でも、僕はそれよりも相談しながらが好きみたいです。だから、自分だけじゃない。こう書かれたものをそうやるんだ、みたいなのを取り入れて、一緒になって作っていくのが楽しいんですよね。

■最後に、三重初単独公演ということで、一言お願いします!

ずっとやりたいなと思ってたんですよ、三重で。でもなかなか名古屋と三重で両方やるのは難しいのかなって。たた最近になって、僕らも名古屋を拠点と謳っていますが、活動をもうちょっと東海地方に広げようと思うようになって。だから、豊橋や池鯉鮒でもやっています。名古屋市内にこだわらなくてもいいんじゃないかと。それは、名古屋以外にも周りにきれいな良い劇場がたくさんできたから。そこに三重県文化会館もあって。今回(若手の劇団向けの)Mゲキネクストの募集があった時に、僕らは若手じゃないけど、やってみたいと応募したら、通ったので(笑)。過去に一度短編で他にもいくつかの劇団がやった中の一つ(C.T.T.三重/2010年2月)として出たことはあるのですが、単独では初めて。僕の中では念願叶ってようやくやれるなという思いがあるので、嬉しいです。三重でやってる劇団は面白いところが多いなっていうのがあったから、気になっちゃって。皆いい劇団は三重でやる(笑)。

とても柔らかな表情で語ってくださった平塚さん。 実は、普段の公演では稽古期間は超短期型だそうで、2週間も劇場に滞在して作り込むのは初めてとのこと。 初めてだらけのオイスターズ最新作。どうぞお楽しみに。

【注釈】
※1 別役実(べつやくみのる)…1937年満州生まれ。戦後日本を代表する不条理劇の名手。1967年「マッチ売りの少女」「赤い鳥の居る風景」で第13回岸田戯曲賞受賞。
※2 北村想(きたむらそう)…1952年滋賀県生まれ。高校卒業後に名古屋に住み始め、1979年劇団「TPO師★団」を旗揚げ。その後、名前を変え「プロジェクト・ナビ」として2003年まで活動。1984年には、「十一人の少年」で第28回岸田國士戯曲賞受賞。現在は伊丹市立演劇ホールにて、戯曲講座「伊丹想流私塾(いたみ・そりゅうしじゅく)」の塾長をつとめる。

Mゲキ→ネクスト2017 オイスターズ「君のそれはなんだ」

《出演》田内康介 川上珠来 柴原啓成  平塚直隆 鈴木亜由子[星の女子さん/FAAN]
《日程》12月9日(土)18時00分開演・12月10日(日)14時00分開演
《会場》三重県文化会館 小ホール
【関連企画】平塚直隆演劇ワークショップ
《日程》12月2日(土)15時00分〜19時00分 《会場》三重県文化会館 小ホール

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【取材ボランティアレポート】日本人はどこから来たのか?3万年前の航海徹底再現プロジェクト

講演風景

「日本人は大陸からやって来た」。

 何となく、そう信じてはいた。

マンモスも、仏教も、漢字も、豆腐も、元はといえば、み〜んな大陸からやって来たのだから、日本人も同じルートをたどったのだろうなあと思ってはいた。
マンモスはたしか、日本列島が大陸と地続きだった時に歩いてやってきたはず。
仏教は船に乗って中国に渡ったお坊さんたちが、必死の思いで持ち帰ったんでしょ?

じゃあ、そもそも日本人は、いつ、どうやって来たの?

 「最初の日本人は、3万年以上前に海を越えてやってきました。その証拠に、約3万8000年前頃(後期旧石器時代)の遺跡が日本中で1万箇所みつかっているんです」。

海部陽介さんのお話は、3万8000年以前の遺跡が日本ではみつかっていないこと、3万8000年前を境に、どっと遺跡が増えるということは、その頃に何かが起こった、つまり、誰かがどこかから来たと考えるのが自然だというところから始まり、実は、その頃というのは、ホモ・サピエンスが全世界に広がり出した時代なんですよ、とテンポよく展開していった。原人・旧人にはできなかったがホモ・サピエンスにはできたこととは何でしょう?という質問が投げかけられると、会場中から一斉に「海を越えた」「寒い地方に行った」という声が次々あがる。まるで、アクティブ・ラーニングの教室のようだ。開始5分であっという間に聴衆は海部さんの話術に引き込まれ、すっかり3万年前の航海再現プロジェクトの乗組員になったかのような気持ちになった。

講師

具体的には、台湾から与那国島の航海を再現するのがこのプロジェクトの目的。なぜなら、当時、大陸と日本は、少なくとも沖縄ルートは陸続きではなかったので、船に乗って渡ってきたということがわかってきたからだ。つまり、海部さんたちが取り組んでいるのは、人類が最初に作った船を再現しようという試みでもある。

船の材料としては、草、竹、丸木の3つの可能性を考えており、まずは草で作ることに取り組んだ。材料を草にするだけではなく、道具もすべて、当時の遺跡から出たものを使うから、例えば、草を刈るのに鎌を使わず、石器を使ったり、方角を見るのに道具を使わず目視に頼るとか、すべて手探りで当時の状況を再現していく。ありとあらゆる英知を集め、成功に向けて、日本だけでなく、台湾も巻き込んだ一大プロジェクトになっている。

第一回目の実験の様子を撮った映像を見せてもらった。ようやく船の準備が整って、海にこぎ出すのだが、たった7人の男女が、笠帽子をかぶって、波間に木の葉のように揺られながら、小さな草の船を必死で漕いでいる姿を見ていたら、思わず手に力が入ってしまった。がんばれ!負けるな!でも、無理しないで!無事で帰って来て!

結果として、1回目の実験は失敗に終わってしまったのだけど、2019年の本番に向けて、準備は着々と進んでいるという。

実験の様子はテレビ番組にもなっているので、ぜひご覧いただきたい。

講演が終わるころには、すっかり海部陽介さんを始め、プロジェクトのメンバーのファンになってしまった。もしもこの航海が成功すれば、日本人のルーツに関する研究が大きく前進することは間違いない。私たちの祖先が、人類初の航海を成功させて渡ってきたなんて、何て誇らしいんだ!しかも、それを実証したのが日本人のチームだなんて、私たちにとって大きな自信になる。

お名前に「海」の字が入っている海部さん。自ら現場に出て陣頭指揮をとっておられ、すっかり日焼けして、その横顔が精悍な正真正銘の「海の男」。きっと3万8000年前にも、海部さんのような方がいて、海を渡って新天地を切り開くというロマンを実現させたにちがいない。

プロジェクトの成功を心から応援したい。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

日本人はどこから来たのか?3万年前の航海徹底再現プロジェクト

日程 2017年9月23日(土曜祝日)
会場 三重県男女共同参画センター 多目的ホール

【取材ボランティアレポート】見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

大野館長

みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

基調講演 博物館で若返る? あなたの脳年齢
講師 三重県総合博物館館長 大野照文さん

第2部 ミュージアムトーク
パネリスト 桑名市博物館:杉本竜さん、パラミタミュージアム:湯浅英雄さん、松浦武四郎記念館:山本命さん、斎宮歴史博物館:船越重伸さん、海の博物館:縣拓也さん
進行 大野照文さん

「博物館で若返る?あなたの脳年齢」という講座のチラシを見たとき、いったい何が語られるのかと大いに期待を抱き、すぐさま参加の申込みをしました。講座を聞いて、衰えかかってきた自分の脳が再び活性化できるヒントを得られるなら、これほどうれしいことはありません。

第一部の冒頭で大野照文さんが語られたゾウの歴史は、私の知的好奇心を刺激してくれました。約5000万年位前に初めてゾウがアフリカに出現し、各地へと移動しました。その頃日本は大陸と陸続きであったため、日本へもゾウはやってきており、化石がよく出てくるのだそうです。しかし1500万年位前に大陸の移動が起こり、日本は大陸から切り離されました。200万年前からは氷河期が始まり、またゾウが渡ってくるようになりましたが、1500万年前〜200万年前の間、海の中の孤島であった日本には本来ゾウはいないはずです。しかし、ミエゾウは500万年前〜300万年前に日本にやってきました。かれらはどのようにして日本にやってきたのか、これは今も謎だといわれました。

一体どのような方法で来たのかと考えると興味が湧いてきて、帰りにミエゾウの復元模型を見に行ってみました。なんという巨大さだろう。なるほどこれほど大きければ浮力も大きく、泳いで来られないわけがない。小さな人間でもドーバー海峡を泳いで渡るという快挙を成し遂げたという話をきいたことがありますが、この巨大さなら、朝鮮半島の先端から島伝いに九州へ、あるいは樺太から北海道へなら渡れたはずだと確信しました。一つの話から「好奇心が刺激され、観察、推理、そして確かめの連鎖が生まれます」という大野館長の言葉の通り、この日私は家に帰っても、次々と湧き起こる疑問(なぜ海を渡ったのだろう、なぜ多くのミエゾウが来たのかなど)解明の糸口を探して、インターネットに向かい合っておりました。

第2部

第二部では三重県内にある5つのミュージアムの学芸員さんから、学芸員になったきっかけや各ミュージアムの紹介をお聞きしました。その中で、私が特に興味を覚えたのは桑名市博物館です。市の博物館であるにもかかわらず、桑名藩や松平定信の関係資料・古万古焼・万古焼・浮世絵・刀(村正)など上質な収蔵品があり、展示会を自館の収蔵品でやれるということでした。これは、桑名に住んでいた人たちがお金持ちであっただけではなく文化への意識が高かったため、博物館へたくさん寄贈をされて貴重な文化財の散逸を逃れたことによります。ぜひ一度訪れて素晴らしい作品群を見てみたいものだと思いました。
「ここがすごいぞ」という松浦武四郎記念館、「祟り、祟られ、化け、化かされ」の斎宮歴史博物館、「骨まで愛して」と訴える海の博物館など、多くの博物館が魅惑的な言葉で私を誘っていて、今年の秋もまたとても忙しくなりそうです。

(取材ボランティア:興味津々子)

取材したイベント

見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

日程 2017年9月9日(土曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

【取材ボランティアレポート】見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

講演風景

秋です。
秋といえば、「芸術の秋」。
三重県生涯学習センターでも、毎週のようにワクワクするイベントが目白押し。

どれに参加しようかなあ・・・とスケジュール帳とにらめっこしながら計画たてるのも、秋の楽しみのひとつ。たくさんあるイベントの中で、毎年、特に楽しみにしているのが「みえミュージアムセミナー」。

歴史の宝庫である三重県には、北から南まで様々な個性派の博物館・美術館があり、全部を回るのはなかなか大変なのだが、何と!「みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー」では、各地の博物館の館長さん・学芸員さんたちが一堂に会し、それぞれの博物館のおすすめポイントを熱く語ってくれるのだ。

第一部は、三重県総合博物館の大野館長が「博物館で若返る?あなたの脳年齢」と題して、好奇心の起源が、人類発祥の地、アフリカで生き延びるために必要な能力だったというお話から。ライオンなどの猛獣に襲われないようにするために、当時の人類は、周りをよく見て、少しでも怪しいことがあれば「あれは何だろう?」と興味を持って探求することが必要だったそうです。襲われそうになるという怖い体験をし、それを何とか乗り切ることができると「あ〜よかった!助かった!」という幸福感で満たされる。それが快感になって、人類は好奇心を持つようになったという。現代社会では、猛獣に襲われることはあまりないけれど、急速な環境変化に適応するために、今、また、好奇心が問われている。大人も子どもも、もっと博物館に行って、好奇心を刺激されたほうがいい。

第2部シンポジウム

第二部は、桑名市博物館、パラミタミュージアム、松浦武四郎記念館、斎宮歴史博物館、海の博物館から、館長さんや学芸員さんが集まり、「私が学芸員になったきっかけ〜学芸員が紡ぐ三重の夢〜」と題して、熱いトークが繰り広げられた。

みなさん、決して恵まれた環境ではない中で、できる限り、多くの人に来てもらいたいという思いで日々、奮闘していらっしゃる。驚いたのは、三重県には、先祖から伝わる家宝を、公共性の高いものだからと、博物館に寄贈する篤志家の方が多くいらっしゃるということ。おかげで、予算が限られている中、所蔵品は充実しており、他県から貸し出し依頼が絶えない館があるとか。

また、なるべく多くの方に見ていただきたいという思いから、例えば、NHKの大河ドラマのテーマに合わせた企画展をしたり、参加型のイベントを開催するなど工夫をこらしているとのこと。博物館の学芸員さんは、実は想像よりもアクティブな方たちなのだというのが、今日、一番の発見だったかもしれない。

実は、今日のシンポジウムに参加していた博物館の中で、地理的に遠いためまだ行ったことがない場所が一か所あるので、この機会にぜひ行こうと心に決めた。

館長さんや学芸員さんのお話を直接聞くと、親近感がわいて、何となくとっつきにくかった博物館が身近に感じられるようになったのも今日の収穫。

芸術の秋はまだまだこれから。

三重県内の博物館周りをして、秋を満喫したいと思う。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

日程 2017年9月9日(土曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「他者にひらかれたからだつくり 〜運動と身体機能の視点から〜」

講座の様子

みえアカデミック公開セミナー2017に参加しました。8月23日に開催されました高田短期大学の二つの講演のうち・柳瀬恵子准教授の講座を報告をさせていただきます。先生は小学校に10年間勤めてみえたということで、聞く人たちへの話しかけがとても上手でした。一人一人の目を見るようにして、笑みを見せながら、大きな声でゆっくり話して下さり、時々実習もあって、楽しく講座が聞けました。

「他者にひらかれたからだつくり」ということで、まず隣の人と自己紹介をしながら握手です。隣に姿を見ているだけの時と違って、実際に触れてみると、相手への警戒心が吹き飛んで親近感が湧いてきます。握手は融合したような感覚を生じさせる行為だそうです。心理的に言えば共感と同じということで、なるほどと納得です。

講師

次に相手の背中に両手の平を当てました。目を閉じて背中に意識を集中し、ゆっくりと手を放すと、温かい気持ちよさが広がり、前から知っていた人のような安心感を覚えました。ふれあい寄り添うことで、人も動物も、生命維持のための消費エネルギーを最小限にとどめることができるのだそうです。

人の身体機能は、ふれあいから進化が始まり、平衡感覚が育ち、距離感(嗅覚・視覚・聴覚)が発達するそうですが、老化するときにはこれが真逆になって、ふれあいの感覚が最後まで残るのだと言われました。人は温かい安心感に包まれたことにより、人として育ち、安心感に包まれながらこの世を終えていく、それが一番幸せなことなのだなあと痛感しました。

最近、若者の中には人との触れ合いが苦手な人が多いと聞きます。多くの方がこのような実習を体験することで、ふれあいの大切さを学んでほしいと感じました。今回は、実習があると理論が生きてくることを実感した講義となりました。本当にありがとうございました。

【取材ボランティア:興味津々子】

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017高田短期大学公開セミナー「他者にひらかれたからだつくり〜運動と身体機能の視点から〜

日程 2017年8月23日(水曜日)
会場 三重県文化会館 1階レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「マティマティクスは数学か?」

講座の様子

小学校から中学校に上がる時、一番の衝撃は、「算数」の授業がなくなって、「数学」になることだった。何だ、何だ?どうして「算数」じゃいけないの?「算数」の範疇にあてはまらない、とんでもない難しい世界が開けてくるのか?そんな不安と期待で、最初の「数学」の授業にのぞんだ私を待っていたのは、xだのyだのといった、英語の授業でしかお目にかからないと信じていたアルファベットが数式に出てくること。ええー?どういうこと?むずかしくて、わけわかんないよ・・・

今回のみえアカデミックセミナーのお題は、「マテマティクスは数学か?」
マテマティクスという学問の名前が正式に「数学」と決められたのは、明治15年。そのことに、三重県がかかわっているという。

講師

お話は、鳥羽商船高等専門学校の佐波学教授。実は、鳥羽商船高等専門学校の前身は「攻玉社」という塾。幕末維新期に、慶應義塾・同人社と並び、三大義塾と称された名門塾で、主に、理工系を目指す塾生が通っていた。明治7年に、351名の塾生が所属したという記録が残っている。攻玉社の創設者は近藤真琴。近藤真琴は、帝国六大教育家の一人と称された。ちなみに六大教育家には、福沢諭吉、新島襄らが名を連ねる。攻玉社は、東京にあったのだが、なぜそれが鳥羽に?

実は、近藤真琴は鳥羽藩主だったのだ。海軍、海運、土木などを教える研究所を作り、鳥羽にはよい港があったことから、分校を鳥羽に作った。それが後に、鳥羽商船高等専門学校になったというわけだ。

攻玉社は数学の授業に定評があり、この時代の中等学校の数学の先生は、攻玉社で学んだか、攻玉社で学んだ先生について学んだか、あるいは、攻玉社で学んだ先生が書いた教科書で学んだかのいずれかだと言われたという。

明治10年、日本数学西洋数学を問わず、互いに気脈を通じさせようとの目的で、東京数学会社が結成された。そして、「西洋数学の術語の訳語を決定する」という目的のために、訳語会を作り、ひとつひとつの専門用語について、どんな訳語をあてるか、議論をした。時には訳語が決まらず、ひとつの単語をめぐって何時間も議論したという。そんな、「紛糾した用語」のひとつが「マテマティクス」。「算学」「数学」「数理学」という3つの候補が上がり、どれにするか、真剣な議論が展開されたという。最終的に「数学」が選ばれ、今日に至るわけだが、国の要職につき、多忙を極めていた人たちが、ひとつの単語の訳をめぐって、何度も会議を開き、侃侃諤諤と議論をしたなんて、やはり、明治時代の人たちの国造りにかける情熱は熱かったのだ。

日本の数学界の基礎を作った人物が三重県出身で、その精神が脈々と受け継がれた学校が今もあるなんて、なんだか嬉しくないだろうか?苦手な数学がちょっぴり好きになった一日だった。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017マテマティクスは数学か?〜 攻玉社と幕末維新期の「数学」〜

日程 2017年8月20日(日曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「本能寺の変」

講座の様子

毎回、参加者が多く、空いた席を探すのに一苦労するみえアカデミックセミナーの中でも人気の「本能寺の変」。何と、募集を始めてすぐ満席になり、応募を締め切ったため、「何とか入れてくれないか」という問い合わせが殺到したそうだ。

それもそのはず、NHKの大河ドラマで最大の見せ場といえば、「本能寺の変」。日本史の中で最もダイナミックに歴史が動いた瞬間が題材となれば、それだけでお客さんは集まるというのに、さらに、講師の藤田達生教授は、新史料でわかった「本能寺の変」の新しい解釈をここで披露されるらしい。つまり、参加できた私たちは歴史的瞬間に立ち会ったと言っても過言ではないのだ。

さて、詳しい内容はというと、実はとても難しかった。それは、歴史的史料を一つ一つ、ていねいにひもといて話がすすんでいくからで、具体的に歴史的史料とは何かというと、昔の言葉で書かれた書簡だったり日記だったり。古文を読むのは、高校生の国語の授業以来だから、一体何が書いてあるのやら全くわからず、ひたすら、現代語訳に頼って読み進めていくしかない。実は、セミナー開始前、いただいた資料をちらっと読んでみたのだが、ちんぷんかんぷんだった。それが、藤田達生教授が朗読されると、あら不思議!言葉一つひとつに魂が宿っているのか、まるで現代語であるかのように、スーッと頭にしみこんでいく。先生は偉大なり。

講師

ということで、詳しい内容は、藤田達生教授がお書きになった著書を読んでいただくといいと思う。(『謎解き本能寺の変』『証言 本能寺の変』など多数出ている)。ここでは、藤田達生教授がお話しになった「本能寺の変」のポイントを、簡単にまとめてみたい。

1.「本能寺の変」は、明智光秀による単独謀反ではない。光秀自身が天下を狙っていたわけではないし、華麗なる家柄の出である光秀は、主従関係、姻戚関係などさまざまな人脈で支えられた組織人であったので、お家の運命を決めるような大事なことは、合議制で決めていた。「敵は本能寺にあり」という光秀の言葉だけで盲目的についていくような組織ではなかったはずなので、信長を討つということは、組織の意思で事前に決めていたと考えられる。

2.「本能寺の変」直前は、信長の天下統一がほぼ達成にさしかかっていた時期。信長の統一国家構想は、自分の子どもや、自分が手塩にかけて育てた近習などを重用し、世代交代を図るという大胆なもの。そのため、明智光秀自身も国替えを余儀なくされ、政権から追われることがわかっていた。左遷され、社会的に抹殺されるくらいなら、組織のためにも、信長を討つというイチかバチかの勝負を選んだのではないかと考えられる。

3.明智光秀には、信長を討つ行為が、決して謀反ではないという大義名分が必要だった。そのために、室町幕府を復活させ、足利義昭の上洛を画策し、信長こそが逆臣であり、自分たちは物事をあるべき姿に戻しただけなのだという正当性を主張したと考えられる。

今回、藤田達生教授が紹介された新史料には、足利義昭と明智光秀が「本能寺の変」の前から通じていたことを示すものもあり、会場からは「おーーー!」「ほーーー!」という悲鳴に近い喚声が上がっていた。おそらく、会場にいらっしゃったみなさんの8月19日の夕食の話題は、「本能寺の変」一色だったにちがいない。

近い将来、新史料にもとづいた、新しい解釈の「本能寺の変」が、大河ドラマで放映されるのを楽しみに待ちたい。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017三重大学公開セミナー「本能寺の変 〜新史料でなにがわかったのか〜」

日程 8月19日(土曜日)
会場 三重県文化会館1階 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「くだもの秘話」

講座の様子

果物は大好きで、毎朝、必ずいただくのが日課。
夏は、ナシとかスイカとか、みずみずしい果物がたくさん店頭に並んでいて嬉しい。
今回、お話してくださった平塚伸教授は、二ホンナシの自家不和合性に関する研究がご専門とのこと。セミナーを聞いたら、私もナシ博士になれるかな?

「日本原産の果物はどれくらいあるかご存知ですか?」
平塚伸教授のセミナーは、そんな問いから始まった。
日本原産?
カキとか、日本っぽいよね?日本原産じゃないの?

答えはノー。
意外にも、果物はほぼ、すべてが外国から日本に来たもので、カキは奈良時代、ダイダイは1世紀ごろ、中国から来たのだそう。
日本原産といえるのは、二ホンナシとクリの二つで、その他の果樹はほとんど明治以降、日本に来たそうだ。

つまり、江戸時代まで、日本人は、ほとんど果物を食べてなかったということになる。

かんきつ類に関する記述は、かなり古く、平安時代の書物にも出てくるけど、すっぱくてとても食べられたものじゃなかったらしい。冬、こたつに入ってテレビを見ながら皮をむいて食べるミカンが、甘くおいしくなったのは、比較的新しく、人工交雑や突然変異を繰り返しながら今もなお進化し続けているとのこと。特にかんきつ類に関しては、まだまだ研究途上で、知られていないことも多い。毎日、当たり前のように食べているくだものは、まだまだ謎に満ちた作物なのだ。そういえば、毎年のように、甘くて、皮がむきやすく、種のない新しい品種の果物が店頭に並んでいるのを思い出した。今年も、どんな新しい品種のくだものが売られるのか、今から楽しみになってきた。

講師

さて、平塚伸教授がご専門の「自家不和合性」。これは、リンゴやナシなどかなり多くの果物にみられる性質で、簡単に言うと、自家受粉では受精しない現象のことを言う。植物は動物と違って、住む場所を選べないので、生き残るためには、違う遺伝子を取り込んで強い種になる必要がある。だから、他から飛んできた、あるいは、運ばれてきた花粉では受粉するが、自分自身の花粉では受粉しないようにプログラミングされているのだ。そういえば、梨農家の人は、受粉の時期が一番忙しいという話を聞いたことがある。それは、人工的に他家受粉しているからなのだ。

その他にも、三重の「幸水」と千葉の「幸水」は同一個体であるとか、「幸水」の種をまいても「幸水」の実はならないとか、いろいろおもしろいくだもの独特の性質を知って、ますますくだものに興味がわいた。三重県には、たくさん梨園があって、梨狩りができるので、一度、梨農家の人に、直接お話を聞いてみよう。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017「くだもの秘話」

日程 2017年8月17日(木曜日)
会場 三重県文化会館1階 レセプションルーム

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