三重県総合文化センター ブログ

取材ボランティアレポート「漂流民 大黒屋光太夫の地を歩くー光太夫の白子・若松を訪ねてー」

伊勢若松駅

本日の講座は伊勢若松駅から始まります。
大黒屋光太夫―
鈴鹿市白子から出航した船頭が巡り巡ってロシア皇帝エカテリーナ二世と謁見し10年の歳月を経て日本に帰港した、この歴史上の人物のことを三重県民はどのくらいの人が知っているのでしょうか。
名前は知っていても簡易な概要しか知らなかったところ、鈴鹿市学芸員の方の説明は非常にわかりやすく、すんなりと頭に入り、帰国までの長い行程も映画のようにリアルに浮かび上がります。

心海寺
書物『極珍書』の実物

地元の大黒屋光太夫顕彰会のみなさんには、1798年に心海寺の住職が生存者の1人である磯吉から話を聴き留めた書物『極珍書』の実物を見せていただきました。参加者全員がどよめき、「政府の役人がまとめたものなら重要文化財の価値がある代物なのですが、一介の住職がまとめたものなのでこれは何ものでもないんですよー」なんて自虐ネタで笑わせていましたが、年代を感じさせない装丁は代々大切に保管してきた証。郷里の人々の大黒屋光太夫たちへの愛情が窺えます。
 河原徳子先生の講義は井上靖『おろしや国酔夢譚』と吉村昭『大黒屋光太夫』を朗読により比較するもので、巧みな語りがBGMの太鼓の生演奏と相まって、遠州灘の暴風雨、極寒ロシアでの凍傷による脚の切断シーンは息詰まる緊張場面の物語性をより高めて臨場感あふれるすばらしいものでした。
歩く距離もほどよく、頭も使い、郷土の歴史を深く学べ、良いこと尽くしなのですが、さらに歴史講座だからか1人で参加されている方もおり、こちらも気が楽になる講座となりました。

快晴で波穏やかな港

さらに、一足伸ばして町中をぶらり。
せっかく講座を聴いたのだからより大黒屋光太夫たちを知りたく、港までふらりと歩いてみました。快晴の波穏やかな浜。光太夫たちは何の不安もなく江戸まで5日程度の旅をここから出航したのでしょう。
それから日本の地を踏んだのは10年後、さらに郷里の地を踏んだのは20年後。1986年に発見された『大黒屋光太夫らの帰郷の文書』には存命であった母親と逢い、伊勢へお礼参りに行ったことが記述されているそうです。これは幕府から軟禁され罪人のように扱われ寂しい晩年であったとする説を覆す新しい発見であるとともに明るい歴史を光太夫に与えたものでした。
しかし、若松東墓地には消息を絶って2年後の三回忌に荷主が建立した光太夫たち「神昌丸」乗組員の供養塔があります。帰省した光太夫は自分の法名と亡くなった乗組員の名前を見て何を思ったのでしょうか。出航時17歳だった1番若い磯吉はさておいても、船頭の自分だけが生き延びて帰国した現実。さらに英雄であるかのように扱われ請われるままにロシア語を書いてみせる日々。光太夫の真の心境は明確にはされていないのですが、影は確かに光太夫の中に存在したのだろうと想像を巡らせてしまいます。
記念館のロシア語の展示物は影なのか、光なのか。

大黒屋光太夫は単なる歴史上だけの人物ではなく、現代の社会人と同じく管理者としての責務や困難を生き抜く力を教えてくれる良き先人であるのだと強く実感し、伊勢若松駅へと向かいました。

 (取材ボランティア 鈴木ゆかり)

取材したイベント

漂流民 大黒屋光太夫の地を歩くー光太夫の白子・若松を訪ねてー

開催日 2019年5月8日(水曜日)
場所  大黒屋光太夫記念館、若松公民館(鈴鹿市若松)とその周辺

夏の風物詩「四谷怪談」をめぐる江戸の小旅行

日本一有名な幽霊といえば、鶴屋南北作「東海道四谷怪談」の”お岩さん”ではないでしょうか。物語は、赤穂浪士の討入劇「忠臣蔵」と同じ時代。塩治家取り潰しにより浪人生活を送っている民谷伊右衛門。己の色欲ゆえに敵方の高野家と組んで、妻のお岩を騙し毒薬を盛ります。髪は抜け落ち、醜い姿になってしまうお岩。裏切りの真実を知り、非業の死を遂げたとき、世にも恐ろしい復讐劇が始まります……。  
今回はその舞台となった四谷、そして”お岩さん”にゆかりのある地を巡りました。

「四谷怪談」誕生秘話

実はお岩さんにはモデルとなった人物がいたことをご存知ですか。江戸四谷左門町に住むお岩は、伊右衛門とは人も羨むおしどり夫婦。奉公に出て家計を支えながら、日頃から民谷家の庭にある社を信仰していたところ田宮家は栄えた、とされています。そこで社の隣に祠をつくり、やがて「於岩稲荷」として信仰されるようになったとのこと。怨霊という設定は、後から創作されたものだったのですね。また、「四谷怪談」で釣りをしていた伊右衛門のもとに1枚の戸板が流れ着き、そこには自分が殺した小仏小平が括り付けられていて戸板がひっくり返るとお岩が……という「戸板返し」のシーンにも、モデルとなる事件が。「身分違いの恋をした旗本の妾と奉公人の下男が一枚の戸板の表裏に釘付けにされて神田川に流された」、「隠亡堀に男女の死体が流れ着き、それを鰻かきが引き上げた」、「直助と権兵衛という2人の主人殺し」など、当時江戸を騒がせた様々な事件をもとに、「東海道四谷怪談」が生まれました。南北も参考にしたといわれる実録体小説「四谷雑談集」では、疱瘡を患い性格にも難のあったお岩のもとに、跡取りのために美男の伊右衛門を婿入りさせますが、伊右衛門に虐待のうえ家を乗っ取られ、お岩の祟りで一家が断絶するというエピソードも。於岩稲荷に祀られているお岩さんとはずいぶんイメージがかけ離れていますね。では、民谷伊右衛門はどうでしょう。「首が飛んでも動いてみせるわ」という歌舞伎の幕切れセリフにも象徴される民谷伊右衛門の希代の悪人像は、南北の作品の中でも「謎帯一寸徳兵衛」で平然と人殺しを行う大島団七にも見られ、その集大成ともいえます。いつの時代も、人は心のどこかで悪の美学に魅せれられてしまうものなのでしょうか。

四谷の「於岩稲荷田宮神社」。


於岩稲荷と歌舞伎役者の成功祈願

今回向かったのは、四谷の住宅街にある「於岩稲荷陽運寺」と「於岩稲荷田宮神社」。お岩さんを祀るお寺と神社が向かい合って建っています。当時、歌舞伎「東海道四谷怪談」は大変な成功をおさめ、三代目尾上菊五郎のお岩、七代目市川團十郎の伊右衛門は当たり役となりました。当初は出演した役者が参詣していたのが、お参りしないと事故が起きるなど祟りの噂にまで発展し、そこから歌舞伎俳優が興行前に必ずお参りに行くようになったそう。現在は、怨霊としてのではなく、商売繁盛、芸能上達、陽運寺のほうは縁結びのお寺としても知られています。また、「於岩稲荷田宮神社」は明治12年の火事で社殿が焼失した(現在は復活)のをきっかけに、隅田川の畔にある民谷家の敷地内(現在の越前堀)にも同じ名前の神社が建てられました(昭和20年の戦災で社殿が焼失するも現在は復活)。こちらは高層ビルの開発が進む中、その一角に緑に覆われひっそりと佇んでいます。

越前堀の「於岩稲荷田宮神社」。境内には四代目市川右団次が奉納した百度石があります。

江戸の光と闇

初演当時、「東海道四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演する形式が注目を集めました。この2作は同じ時代を背景に、討ち入りを巡る忠義の物語と、その裏側の物語を描いています。「四谷怪談」が描かれたのは「忠臣蔵」から77年後。その頃の江戸は武士の権威が衰退し、浪人たちは日々の暮らしに困窮する始末。塩治浪人の民谷家も例外ではなく、お岩の父・四谷左門は乞食同然の生活をしながらも、塩治のお金を横領した伊右衛門の支援を受けようとはせず正義を貫きます。そんな中、左門を殺して、父の敵討ちを口実にお岩を騙して復縁、挙句の果てには彼女を捨てて、その後も次々と悪事を重ねる伊右衛門。「タテマエ」だけではない「ホンネ」の世界。「四谷怪談」はまさにそんな市井の人々の欲、愛憎が炙り出された作品なのです。

四谷の陽運寺。今は悪縁を切り良縁を結ぶ神様として人気があります。

まるで当時にタイムスリップしたかのような旅。怪談話の裏にある、幽霊よりも怖い人の世の物語。9月22日は、木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さん、三重大学人文学部の田中綾乃先生と共に、その奥深い世界に浸かってみませんか。

参考文献:『鶴屋南北』諏訪春雄著(ミネルヴァ書房)
     『お岩と伊右衛門 「四谷怪談」の深層』高田衛(洋泉社)

おしゃべり古典サロン

vol.3テーマ 『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』 
講師     木ノ下 裕一(木ノ下歌舞伎主宰)
       田中綾乃(三重大学准教授)
日時         
2019年9月22日(日曜日) 14時00分〜16時00分
会場     
三重県文化会館 小ホール
受講料    1000円

詳細はコチラ

1

最近のブログ

カレンダー

<<2019年08月>>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

カテゴリ

アーカイブ

このページの先頭へ

メニュー