三重県総合文化センター ブログ

取材ボランティアレポート「第65回名盤を聴く」

講座風景

ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」が終わると、自然に会場から拍手がわき起こる。
1983年に録画された古い映像を見ていることなど、誰もが忘れていた。
まるで、目の前で生演奏を聴き終わったかのような高揚感。
久しぶりに鳥肌がたった。

2002年から続いている「名盤を聴く」。第65回の今回は「エフゲニー・ムラヴィンスキー特集 第二弾」。「第二弾」とついていることからもおわかりのように、ファンからの強いリクエストに応えて、2006年の第一弾から約10年たった今年、待望の「ムラヴィンスキー特集 第二弾」が実現した。

今回の映像は、1983年に、ミンスク・フィルハーモニー・ホールで録画されたものなのだが、ソ連時代の古い機材で録画されていたため、日本の最新の技術で変換し、ようやく日の目をみることになったそうだ。いわば、日本人のムラヴィンスキーに対する熱い思いが、幻の映像を復活させたといえる。ただ、映像の状態は極めて悪く、途中で映像が途切れたり雑音が入ったりする場面もあった。

しかし、そういう古さがあるため、かえってライブ感があってワクワクした。なにより、指揮者のムラヴィンスキーの表情を至近距離でじっくり見ることができるのがよい。指揮者は普通、聴衆に背中を向けているので、時折ちらっと横顔が見えるくらい。ということは、指揮者自身も、曲が終わるまで、聴衆の表情を見ることはできないわけだ。しかし、背中に注がれる熱い視線を感じないわけはなく、本番中、背中に感じるプレッシャーはとてつもなく重いに違いない。

講座風景

今回は、演奏の映像だけでなく、リハーサルの様子やインタビューの映像もじっくり見ることができた。リハーサルは、一小節、一小節区切りながら、ていねいにすすめていく。決して妥協することなく。まるで、音楽大学の学生が譜面とにらめっこしながらピアノの練習をしているかのような細かさ。しかし、壮大な交響曲も、ひとつひとつの音符の集まりなのだから、当然のことなのだ。そうやって、ひとつひとつ、ていねいに積み上げていった音が響き合い、ひとつに溶け合った時、指揮者ムラヴィンスキー自身が言う「至福の時」が現れる。私は残念ながら、ムラヴィンスキーの演奏を生で聴くことはできなかったが、今回の「名盤を聴く」に参加させていただいて、まるで生の演奏を聴いたかのような感動を味わうことができた。

インタビューの中でムラヴィンスキーは、演奏に求められるのは、「客観性」や「正当性」ではない。「それは正しいのか?」という問いは無用だ。重要なのは、「説得力があるかどうか」。この演奏で、聴衆を説得することができるかどうか、それだけが求められるのだと言っていた。だから、例えば、ムラヴィンスキーの十八番ともいえるショスタコーヴィチの交響曲第五番であっても、通しリハーサルは納得のいくまで、最低10回は繰り返すのだという。オーケストラは他人との共同作業で音を編み出す作業であり、指揮者には指揮者の、団員が100人いれば100人の曲に対する思い、イメージというものがあるのだから、それらをぶつけあい、新しいものを創造していく作業というのは、苦しいものなのだ。ムラヴィンスキーが指揮台のことを「処刑台」と呼んでいたのが、大変印象的だった。長身痩躯のムラヴィンスキーは、胃が悪く、少食だったためやせていたとのこと。若いころは大げさなパフォーマンスだと言われるくらいダイナミックな指揮をしていたが、晩年は、指揮棒も使わず、動きを最小限に抑え、視線を送るだけで団員と意思疎通を図っている場面も多く見られた。たとえ、リハーサルであっても、長身のムラヴィンスキーが背筋をピンと伸ばし、指揮台に立つだけで場に集中力がみなぎる。これこそ、「巨匠」の存在感なのだろう。

講座風景

ロシア語のインタビューを聴いていると、ムラヴィンスキーの話す言葉自体が音楽のようだった。ムダがなく、流れるように途切れなく続いていく言葉たち。言葉はわからないけれど、ずっと聴いていたい気がした。

録音嫌いだったムラヴィンスキー。ひとつの理由は、彼は極限までピアニッシモを抑えるので、録音では音が拾えないということもあったという。しかし、現代のテクノロジーで、幻の映像が見られるようになったことは本当に嬉しい。

帰りに、多くの方が、次回の「名盤を聴く」の申込みをしていったのが印象的だった。生演奏を聴くのと同じくらい、もしかすると、それ以上の感動をもらえる「名盤を聴く」。もちろん私も次回も参加するつもりだ。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

第65回名盤を聴く エフゲニー・ムラヴィンスキー特集 第二弾

日程 2017年12月16日(土曜日)
会場 三重県生涯学習センター2階 視聴覚室

取材ボランティアレポート「男女共同参画フォーラム みえの男女2017 減災・復興と男女共同参画」

講演風景

熊本地震から1年、東日本震災から6年。
いま改めて、減災・復興と男女共同参画について考える。

そんなテーマで行われた今年の男女共同参画フォーラム。
会場には、「防災」「災害」「避難所」などの言葉が飛び交い、いつもの男女共同参画とはちょっと違うハードな雰囲気が漂う。

なぜ、防災に男女共同参画?

そんな戸惑いの声もちらほら聞かれる中、始まった基調講演。冒頭、今までは、科学が進歩すれば地震の予測が可能になるという前提で様々な防災計画を立てていたが、科学が進歩したおかげで、逆に、確度の高い予測は困難であるということがわかり、その前提で防災計画を練り直しているというショッキングなニュースがもたらされた。

ええっ?やっぱり地震がいつ、どこで起きるかは予測できない?じゃあ、私たちはどうすれば?

日本では、大きな災害が起きるたびに、その経験をもとに、防災計画が見直されてきた。熊本地震は、「避難者の姿が多様化しつつある」という教訓をもたらした。指定避難所に行かず、車中泊をする人。物資だけを取りに避難所に来る人。日本語のほとんどわからない外国人の方。障がいがあるため、避難所生活が特に困難な人。妊婦さん。介護が必要な人、などなど、多様な人が、多様な支援を必要としていた。実際、熊本には、指定避難所だけでなく、小さな避難所がたくさんでき、さまざまなニーズにこたえようと多くの人が関わった。この経験からわかったことは、大規模災害時に、行政にすべてを任せることは難しいということ。今までは、何もかもやろうとしていた役所が、住民のみなさんに対して「自助」「共助」をお願いしますと言い出したことは、実は画期的なことなんですと講演者の佐谷説子さんがおっしゃっていたのがとても印象的だった。

パネルディスカッション

パネラーの松浦信男さんは、阪神淡路大震災で工場をなくした経験から、「自助」の重要性を痛感し、現在の工場にはいざという時に困らないようにするための工夫をこらしているという。災害の記憶を風化させないためには、家族ぐるみ、会社ぐるみ、地域ぐるみの取組が必要なのだ。

熊本地震では、役場の建物が損壊したり、データベースがなくなったりして行政機能が低下し、1日1,000人近い応援が他の自治体から入ったという。パネラーの山本康史さんが、数多くのボランティア活動に関わってきた経験から、災害の時に最も大切なのは、「受援力(じゅえんりょく)=助けてもらう力」です!と、強調されていた。「助けられ上手」になるためには、自分が今、どんな状態で、どんな助けが必要なのか、ということを、解決する力のある相手に適切に伝えること。助けてもらったら素直に「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えること。そういう能力こそが、いざという時に命を救う。そして、そういう能力を身につけるために、平時からさまざまな訓練を積み、コミュニケーション能力を高めておくことが、助ける側にも助けられる側にも必要なのだ。防災対策というと、家具の固定をしたり、避難経路を確認したりということにばかり目が向いていたが、コミュニケーション能力を高めておくことも危機管理のひとつなんだと学んだ。

フォーラムの様子

東日本大震災でも、熊本地震でも、多くの避難所で女性たちが意思決定の場に関わってこなかったことが原因で、不自由を強いられ、苦しんだと報告されている。多くの家庭で、家計をはじめ様々なことをマネージメントしているのは女性なので、女性が苦しめば、子どもも苦しむし、介護をされている家族も苦しむ。つまり、弱者に大きな負担がかかるということだ。「災害現場で男女共同参画なんて!」という声も聞こえるが、決してこれは、女性のためだけではない。避難所という狭い空間に、多様な人が集まってくる以上、多様なニーズがあり、避難所運営は柔軟であるべきで、そこに女性の視点が必要なのは明らかである。まず、女性の声を聞くことから、多様性を受け入れる柔軟な対応は始まり、外国人や障がいのある方など、さまざまな弱い立場の人達の声を聞くことにつながっていき、結果として、多くの命を救えることにつながっていく。

講演者の佐谷説子さんはまた、「数字を集めよう」ということを強調されていた。「授乳で困っている人がいます」ということを漠然と言っただけでは具体的な支援には結びつかないけれど、この避難所に授乳に困っている女性が5人います、というようにきちんとデータを示してもらえれば、ボランティアもすぐに対応できますと、パネリストの山本康史さんもおっしゃっていたように、数字は支援を呼ぶための大きな力になるのだ。ただただ、がんばろう!という根性論ではなく、科学的に解決しましょうという呼びかけに、会場中が大きくうなずいた。

「減災・復興と男女共同参画」は、これからの防災対策に欠かせない大事な視点。
大きな宿題をもらった気がするが、コミュニケーション能力は女性の得意分野でもある。
みんなで力を合わせて、大きな災害時に生き抜く力につなげたい。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

男女共同参画フォーラム 〜みえの男女(ひと)2017〜
減災・復興と男女共同参画 地域・企業・行政がいまできること

日程 2017年11月11日(土曜日)
会場 三重県男女共同参画センター「フレンテみえ」多目的ホール他

【取材ボランティアレポート】日本人はどこから来たのか?3万年前の航海徹底再現プロジェクト

講演風景

「日本人は大陸からやって来た」。

 何となく、そう信じてはいた。

マンモスも、仏教も、漢字も、豆腐も、元はといえば、み〜んな大陸からやって来たのだから、日本人も同じルートをたどったのだろうなあと思ってはいた。
マンモスはたしか、日本列島が大陸と地続きだった時に歩いてやってきたはず。
仏教は船に乗って中国に渡ったお坊さんたちが、必死の思いで持ち帰ったんでしょ?

じゃあ、そもそも日本人は、いつ、どうやって来たの?

 「最初の日本人は、3万年以上前に海を越えてやってきました。その証拠に、約3万8000年前頃(後期旧石器時代)の遺跡が日本中で1万箇所みつかっているんです」。

海部陽介さんのお話は、3万8000年以前の遺跡が日本ではみつかっていないこと、3万8000年前を境に、どっと遺跡が増えるということは、その頃に何かが起こった、つまり、誰かがどこかから来たと考えるのが自然だというところから始まり、実は、その頃というのは、ホモ・サピエンスが全世界に広がり出した時代なんですよ、とテンポよく展開していった。原人・旧人にはできなかったがホモ・サピエンスにはできたこととは何でしょう?という質問が投げかけられると、会場中から一斉に「海を越えた」「寒い地方に行った」という声が次々あがる。まるで、アクティブ・ラーニングの教室のようだ。開始5分であっという間に聴衆は海部さんの話術に引き込まれ、すっかり3万年前の航海再現プロジェクトの乗組員になったかのような気持ちになった。

講師

具体的には、台湾から与那国島の航海を再現するのがこのプロジェクトの目的。なぜなら、当時、大陸と日本は、少なくとも沖縄ルートは陸続きではなかったので、船に乗って渡ってきたということがわかってきたからだ。つまり、海部さんたちが取り組んでいるのは、人類が最初に作った船を再現しようという試みでもある。

船の材料としては、草、竹、丸木の3つの可能性を考えており、まずは草で作ることに取り組んだ。材料を草にするだけではなく、道具もすべて、当時の遺跡から出たものを使うから、例えば、草を刈るのに鎌を使わず、石器を使ったり、方角を見るのに道具を使わず目視に頼るとか、すべて手探りで当時の状況を再現していく。ありとあらゆる英知を集め、成功に向けて、日本だけでなく、台湾も巻き込んだ一大プロジェクトになっている。

第一回目の実験の様子を撮った映像を見せてもらった。ようやく船の準備が整って、海にこぎ出すのだが、たった7人の男女が、笠帽子をかぶって、波間に木の葉のように揺られながら、小さな草の船を必死で漕いでいる姿を見ていたら、思わず手に力が入ってしまった。がんばれ!負けるな!でも、無理しないで!無事で帰って来て!

結果として、1回目の実験は失敗に終わってしまったのだけど、2019年の本番に向けて、準備は着々と進んでいるという。

実験の様子はテレビ番組にもなっているので、ぜひご覧いただきたい。

講演が終わるころには、すっかり海部陽介さんを始め、プロジェクトのメンバーのファンになってしまった。もしもこの航海が成功すれば、日本人のルーツに関する研究が大きく前進することは間違いない。私たちの祖先が、人類初の航海を成功させて渡ってきたなんて、何て誇らしいんだ!しかも、それを実証したのが日本人のチームだなんて、私たちにとって大きな自信になる。

お名前に「海」の字が入っている海部さん。自ら現場に出て陣頭指揮をとっておられ、すっかり日焼けして、その横顔が精悍な正真正銘の「海の男」。きっと3万8000年前にも、海部さんのような方がいて、海を渡って新天地を切り開くというロマンを実現させたにちがいない。

プロジェクトの成功を心から応援したい。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

日本人はどこから来たのか?3万年前の航海徹底再現プロジェクト

日程 2017年9月23日(土曜祝日)
会場 三重県男女共同参画センター 多目的ホール

【取材ボランティアレポート】見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

大野館長

みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

基調講演 博物館で若返る? あなたの脳年齢
講師 三重県総合博物館館長 大野照文さん

第2部 ミュージアムトーク
パネリスト 桑名市博物館:杉本竜さん、パラミタミュージアム:湯浅英雄さん、松浦武四郎記念館:山本命さん、斎宮歴史博物館:船越重伸さん、海の博物館:縣拓也さん
進行 大野照文さん

「博物館で若返る?あなたの脳年齢」という講座のチラシを見たとき、いったい何が語られるのかと大いに期待を抱き、すぐさま参加の申込みをしました。講座を聞いて、衰えかかってきた自分の脳が再び活性化できるヒントを得られるなら、これほどうれしいことはありません。

第一部の冒頭で大野照文さんが語られたゾウの歴史は、私の知的好奇心を刺激してくれました。約5000万年位前に初めてゾウがアフリカに出現し、各地へと移動しました。その頃日本は大陸と陸続きであったため、日本へもゾウはやってきており、化石がよく出てくるのだそうです。しかし1500万年位前に大陸の移動が起こり、日本は大陸から切り離されました。200万年前からは氷河期が始まり、またゾウが渡ってくるようになりましたが、1500万年前〜200万年前の間、海の中の孤島であった日本には本来ゾウはいないはずです。しかし、ミエゾウは500万年前〜300万年前に日本にやってきました。かれらはどのようにして日本にやってきたのか、これは今も謎だといわれました。

一体どのような方法で来たのかと考えると興味が湧いてきて、帰りにミエゾウの復元模型を見に行ってみました。なんという巨大さだろう。なるほどこれほど大きければ浮力も大きく、泳いで来られないわけがない。小さな人間でもドーバー海峡を泳いで渡るという快挙を成し遂げたという話をきいたことがありますが、この巨大さなら、朝鮮半島の先端から島伝いに九州へ、あるいは樺太から北海道へなら渡れたはずだと確信しました。一つの話から「好奇心が刺激され、観察、推理、そして確かめの連鎖が生まれます」という大野館長の言葉の通り、この日私は家に帰っても、次々と湧き起こる疑問(なぜ海を渡ったのだろう、なぜ多くのミエゾウが来たのかなど)解明の糸口を探して、インターネットに向かい合っておりました。

第2部

第二部では三重県内にある5つのミュージアムの学芸員さんから、学芸員になったきっかけや各ミュージアムの紹介をお聞きしました。その中で、私が特に興味を覚えたのは桑名市博物館です。市の博物館であるにもかかわらず、桑名藩や松平定信の関係資料・古万古焼・万古焼・浮世絵・刀(村正)など上質な収蔵品があり、展示会を自館の収蔵品でやれるということでした。これは、桑名に住んでいた人たちがお金持ちであっただけではなく文化への意識が高かったため、博物館へたくさん寄贈をされて貴重な文化財の散逸を逃れたことによります。ぜひ一度訪れて素晴らしい作品群を見てみたいものだと思いました。
「ここがすごいぞ」という松浦武四郎記念館、「祟り、祟られ、化け、化かされ」の斎宮歴史博物館、「骨まで愛して」と訴える海の博物館など、多くの博物館が魅惑的な言葉で私を誘っていて、今年の秋もまたとても忙しくなりそうです。

(取材ボランティア:興味津々子)

取材したイベント

見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

日程 2017年9月9日(土曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

【取材ボランティアレポート】見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

講演風景

秋です。
秋といえば、「芸術の秋」。
三重県生涯学習センターでも、毎週のようにワクワクするイベントが目白押し。

どれに参加しようかなあ・・・とスケジュール帳とにらめっこしながら計画たてるのも、秋の楽しみのひとつ。たくさんあるイベントの中で、毎年、特に楽しみにしているのが「みえミュージアムセミナー」。

歴史の宝庫である三重県には、北から南まで様々な個性派の博物館・美術館があり、全部を回るのはなかなか大変なのだが、何と!「みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー」では、各地の博物館の館長さん・学芸員さんたちが一堂に会し、それぞれの博物館のおすすめポイントを熱く語ってくれるのだ。

第一部は、三重県総合博物館の大野館長が「博物館で若返る?あなたの脳年齢」と題して、好奇心の起源が、人類発祥の地、アフリカで生き延びるために必要な能力だったというお話から。ライオンなどの猛獣に襲われないようにするために、当時の人類は、周りをよく見て、少しでも怪しいことがあれば「あれは何だろう?」と興味を持って探求することが必要だったそうです。襲われそうになるという怖い体験をし、それを何とか乗り切ることができると「あ〜よかった!助かった!」という幸福感で満たされる。それが快感になって、人類は好奇心を持つようになったという。現代社会では、猛獣に襲われることはあまりないけれど、急速な環境変化に適応するために、今、また、好奇心が問われている。大人も子どもも、もっと博物館に行って、好奇心を刺激されたほうがいい。

第2部シンポジウム

第二部は、桑名市博物館、パラミタミュージアム、松浦武四郎記念館、斎宮歴史博物館、海の博物館から、館長さんや学芸員さんが集まり、「私が学芸員になったきっかけ〜学芸員が紡ぐ三重の夢〜」と題して、熱いトークが繰り広げられた。

みなさん、決して恵まれた環境ではない中で、できる限り、多くの人に来てもらいたいという思いで日々、奮闘していらっしゃる。驚いたのは、三重県には、先祖から伝わる家宝を、公共性の高いものだからと、博物館に寄贈する篤志家の方が多くいらっしゃるということ。おかげで、予算が限られている中、所蔵品は充実しており、他県から貸し出し依頼が絶えない館があるとか。

また、なるべく多くの方に見ていただきたいという思いから、例えば、NHKの大河ドラマのテーマに合わせた企画展をしたり、参加型のイベントを開催するなど工夫をこらしているとのこと。博物館の学芸員さんは、実は想像よりもアクティブな方たちなのだというのが、今日、一番の発見だったかもしれない。

実は、今日のシンポジウムに参加していた博物館の中で、地理的に遠いためまだ行ったことがない場所が一か所あるので、この機会にぜひ行こうと心に決めた。

館長さんや学芸員さんのお話を直接聞くと、親近感がわいて、何となくとっつきにくかった博物館が身近に感じられるようになったのも今日の収穫。

芸術の秋はまだまだこれから。

三重県内の博物館周りをして、秋を満喫したいと思う。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

日程 2017年9月9日(土曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「他者にひらかれたからだつくり 〜運動と身体機能の視点から〜」

講座の様子

みえアカデミック公開セミナー2017に参加しました。8月23日に開催されました高田短期大学の二つの講演のうち・柳瀬恵子准教授の講座を報告をさせていただきます。先生は小学校に10年間勤めてみえたということで、聞く人たちへの話しかけがとても上手でした。一人一人の目を見るようにして、笑みを見せながら、大きな声でゆっくり話して下さり、時々実習もあって、楽しく講座が聞けました。

「他者にひらかれたからだつくり」ということで、まず隣の人と自己紹介をしながら握手です。隣に姿を見ているだけの時と違って、実際に触れてみると、相手への警戒心が吹き飛んで親近感が湧いてきます。握手は融合したような感覚を生じさせる行為だそうです。心理的に言えば共感と同じということで、なるほどと納得です。

講師

次に相手の背中に両手の平を当てました。目を閉じて背中に意識を集中し、ゆっくりと手を放すと、温かい気持ちよさが広がり、前から知っていた人のような安心感を覚えました。ふれあい寄り添うことで、人も動物も、生命維持のための消費エネルギーを最小限にとどめることができるのだそうです。

人の身体機能は、ふれあいから進化が始まり、平衡感覚が育ち、距離感(嗅覚・視覚・聴覚)が発達するそうですが、老化するときにはこれが真逆になって、ふれあいの感覚が最後まで残るのだと言われました。人は温かい安心感に包まれたことにより、人として育ち、安心感に包まれながらこの世を終えていく、それが一番幸せなことなのだなあと痛感しました。

最近、若者の中には人との触れ合いが苦手な人が多いと聞きます。多くの方がこのような実習を体験することで、ふれあいの大切さを学んでほしいと感じました。今回は、実習があると理論が生きてくることを実感した講義となりました。本当にありがとうございました。

【取材ボランティア:興味津々子】

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017高田短期大学公開セミナー「他者にひらかれたからだつくり〜運動と身体機能の視点から〜

日程 2017年8月23日(水曜日)
会場 三重県文化会館 1階レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「マティマティクスは数学か?」

講座の様子

小学校から中学校に上がる時、一番の衝撃は、「算数」の授業がなくなって、「数学」になることだった。何だ、何だ?どうして「算数」じゃいけないの?「算数」の範疇にあてはまらない、とんでもない難しい世界が開けてくるのか?そんな不安と期待で、最初の「数学」の授業にのぞんだ私を待っていたのは、xだのyだのといった、英語の授業でしかお目にかからないと信じていたアルファベットが数式に出てくること。ええー?どういうこと?むずかしくて、わけわかんないよ・・・

今回のみえアカデミックセミナーのお題は、「マテマティクスは数学か?」
マテマティクスという学問の名前が正式に「数学」と決められたのは、明治15年。そのことに、三重県がかかわっているという。

講師

お話は、鳥羽商船高等専門学校の佐波学教授。実は、鳥羽商船高等専門学校の前身は「攻玉社」という塾。幕末維新期に、慶應義塾・同人社と並び、三大義塾と称された名門塾で、主に、理工系を目指す塾生が通っていた。明治7年に、351名の塾生が所属したという記録が残っている。攻玉社の創設者は近藤真琴。近藤真琴は、帝国六大教育家の一人と称された。ちなみに六大教育家には、福沢諭吉、新島襄らが名を連ねる。攻玉社は、東京にあったのだが、なぜそれが鳥羽に?

実は、近藤真琴は鳥羽藩主だったのだ。海軍、海運、土木などを教える研究所を作り、鳥羽にはよい港があったことから、分校を鳥羽に作った。それが後に、鳥羽商船高等専門学校になったというわけだ。

攻玉社は数学の授業に定評があり、この時代の中等学校の数学の先生は、攻玉社で学んだか、攻玉社で学んだ先生について学んだか、あるいは、攻玉社で学んだ先生が書いた教科書で学んだかのいずれかだと言われたという。

明治10年、日本数学西洋数学を問わず、互いに気脈を通じさせようとの目的で、東京数学会社が結成された。そして、「西洋数学の術語の訳語を決定する」という目的のために、訳語会を作り、ひとつひとつの専門用語について、どんな訳語をあてるか、議論をした。時には訳語が決まらず、ひとつの単語をめぐって何時間も議論したという。そんな、「紛糾した用語」のひとつが「マテマティクス」。「算学」「数学」「数理学」という3つの候補が上がり、どれにするか、真剣な議論が展開されたという。最終的に「数学」が選ばれ、今日に至るわけだが、国の要職につき、多忙を極めていた人たちが、ひとつの単語の訳をめぐって、何度も会議を開き、侃侃諤諤と議論をしたなんて、やはり、明治時代の人たちの国造りにかける情熱は熱かったのだ。

日本の数学界の基礎を作った人物が三重県出身で、その精神が脈々と受け継がれた学校が今もあるなんて、なんだか嬉しくないだろうか?苦手な数学がちょっぴり好きになった一日だった。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017マテマティクスは数学か?〜 攻玉社と幕末維新期の「数学」〜

日程 2017年8月20日(日曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「本能寺の変」

講座の様子

毎回、参加者が多く、空いた席を探すのに一苦労するみえアカデミックセミナーの中でも人気の「本能寺の変」。何と、募集を始めてすぐ満席になり、応募を締め切ったため、「何とか入れてくれないか」という問い合わせが殺到したそうだ。

それもそのはず、NHKの大河ドラマで最大の見せ場といえば、「本能寺の変」。日本史の中で最もダイナミックに歴史が動いた瞬間が題材となれば、それだけでお客さんは集まるというのに、さらに、講師の藤田達生教授は、新史料でわかった「本能寺の変」の新しい解釈をここで披露されるらしい。つまり、参加できた私たちは歴史的瞬間に立ち会ったと言っても過言ではないのだ。

さて、詳しい内容はというと、実はとても難しかった。それは、歴史的史料を一つ一つ、ていねいにひもといて話がすすんでいくからで、具体的に歴史的史料とは何かというと、昔の言葉で書かれた書簡だったり日記だったり。古文を読むのは、高校生の国語の授業以来だから、一体何が書いてあるのやら全くわからず、ひたすら、現代語訳に頼って読み進めていくしかない。実は、セミナー開始前、いただいた資料をちらっと読んでみたのだが、ちんぷんかんぷんだった。それが、藤田達生教授が朗読されると、あら不思議!言葉一つひとつに魂が宿っているのか、まるで現代語であるかのように、スーッと頭にしみこんでいく。先生は偉大なり。

講師

ということで、詳しい内容は、藤田達生教授がお書きになった著書を読んでいただくといいと思う。(『謎解き本能寺の変』『証言 本能寺の変』など多数出ている)。ここでは、藤田達生教授がお話しになった「本能寺の変」のポイントを、簡単にまとめてみたい。

1.「本能寺の変」は、明智光秀による単独謀反ではない。光秀自身が天下を狙っていたわけではないし、華麗なる家柄の出である光秀は、主従関係、姻戚関係などさまざまな人脈で支えられた組織人であったので、お家の運命を決めるような大事なことは、合議制で決めていた。「敵は本能寺にあり」という光秀の言葉だけで盲目的についていくような組織ではなかったはずなので、信長を討つということは、組織の意思で事前に決めていたと考えられる。

2.「本能寺の変」直前は、信長の天下統一がほぼ達成にさしかかっていた時期。信長の統一国家構想は、自分の子どもや、自分が手塩にかけて育てた近習などを重用し、世代交代を図るという大胆なもの。そのため、明智光秀自身も国替えを余儀なくされ、政権から追われることがわかっていた。左遷され、社会的に抹殺されるくらいなら、組織のためにも、信長を討つというイチかバチかの勝負を選んだのではないかと考えられる。

3.明智光秀には、信長を討つ行為が、決して謀反ではないという大義名分が必要だった。そのために、室町幕府を復活させ、足利義昭の上洛を画策し、信長こそが逆臣であり、自分たちは物事をあるべき姿に戻しただけなのだという正当性を主張したと考えられる。

今回、藤田達生教授が紹介された新史料には、足利義昭と明智光秀が「本能寺の変」の前から通じていたことを示すものもあり、会場からは「おーーー!」「ほーーー!」という悲鳴に近い喚声が上がっていた。おそらく、会場にいらっしゃったみなさんの8月19日の夕食の話題は、「本能寺の変」一色だったにちがいない。

近い将来、新史料にもとづいた、新しい解釈の「本能寺の変」が、大河ドラマで放映されるのを楽しみに待ちたい。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017三重大学公開セミナー「本能寺の変 〜新史料でなにがわかったのか〜」

日程 8月19日(土曜日)
会場 三重県文化会館1階 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「くだもの秘話」

講座の様子

果物は大好きで、毎朝、必ずいただくのが日課。
夏は、ナシとかスイカとか、みずみずしい果物がたくさん店頭に並んでいて嬉しい。
今回、お話してくださった平塚伸教授は、二ホンナシの自家不和合性に関する研究がご専門とのこと。セミナーを聞いたら、私もナシ博士になれるかな?

「日本原産の果物はどれくらいあるかご存知ですか?」
平塚伸教授のセミナーは、そんな問いから始まった。
日本原産?
カキとか、日本っぽいよね?日本原産じゃないの?

答えはノー。
意外にも、果物はほぼ、すべてが外国から日本に来たもので、カキは奈良時代、ダイダイは1世紀ごろ、中国から来たのだそう。
日本原産といえるのは、二ホンナシとクリの二つで、その他の果樹はほとんど明治以降、日本に来たそうだ。

つまり、江戸時代まで、日本人は、ほとんど果物を食べてなかったということになる。

かんきつ類に関する記述は、かなり古く、平安時代の書物にも出てくるけど、すっぱくてとても食べられたものじゃなかったらしい。冬、こたつに入ってテレビを見ながら皮をむいて食べるミカンが、甘くおいしくなったのは、比較的新しく、人工交雑や突然変異を繰り返しながら今もなお進化し続けているとのこと。特にかんきつ類に関しては、まだまだ研究途上で、知られていないことも多い。毎日、当たり前のように食べているくだものは、まだまだ謎に満ちた作物なのだ。そういえば、毎年のように、甘くて、皮がむきやすく、種のない新しい品種の果物が店頭に並んでいるのを思い出した。今年も、どんな新しい品種のくだものが売られるのか、今から楽しみになってきた。

講師

さて、平塚伸教授がご専門の「自家不和合性」。これは、リンゴやナシなどかなり多くの果物にみられる性質で、簡単に言うと、自家受粉では受精しない現象のことを言う。植物は動物と違って、住む場所を選べないので、生き残るためには、違う遺伝子を取り込んで強い種になる必要がある。だから、他から飛んできた、あるいは、運ばれてきた花粉では受粉するが、自分自身の花粉では受粉しないようにプログラミングされているのだ。そういえば、梨農家の人は、受粉の時期が一番忙しいという話を聞いたことがある。それは、人工的に他家受粉しているからなのだ。

その他にも、三重の「幸水」と千葉の「幸水」は同一個体であるとか、「幸水」の種をまいても「幸水」の実はならないとか、いろいろおもしろいくだもの独特の性質を知って、ますますくだものに興味がわいた。三重県には、たくさん梨園があって、梨狩りができるので、一度、梨農家の人に、直接お話を聞いてみよう。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017「くだもの秘話」

日程 2017年8月17日(木曜日)
会場 三重県文化会館1階 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「おもてなし経営とは」

講座の様子

四日市大学経済学部の岡 良浩(おか・よしひろ)准教授を講師に迎えた「みえアカデミックセミナー2017・おもてなし経営とは何か〜科学と実践の最前線〜」を受講したので、その内容や感想についてレポートします。

 【おもてなし経営】とはまだまだ一般には耳慣れない言葉であり、私も、『観光客や企業・学術イベントなどを現場誘致して、継続的な事業を通じて地域の発展や活性化を進める』というようなイメージを抱いていました。
同じような感覚で受講された方もいるかもしれません。

セミナーは国内のGDPや各業種の生産性(労働生産性)など、構造的な話からはじまったのですが、私が一番印象に残った、おもてなし経営とは、という点をレポートしたいと思います。

ここでの「おもてなし」とはサービス産業に関わる事であり、飲食店や小売店、娯楽・観光施設などはもとより、電気・ガス・水道の供給などを含めた「大変広い意味でのサービス供給事業」とします。

もともとは経済産業省が推奨しているスタイルで、少子高齢化や国際化、情報や価値観の急速なグローバル化に伴い必然的に発生する価格競争に陥ることなく

1 サービス事業者の社員の意欲と能力を最大限に引き出し
2 地域や社会との関りを大切にしながら
3 顧客に対して高い付加価値と差別化したサービスを提供する

経営をおもてなし経営としています。

経産省では平成24年度からそのような経営を目指し、実績を上げている全国の企業を100社程度選定しています。三重県内では 伊賀市の自動車販売・サービス業者と鳥羽市の海女小屋体験事業者、多気町の製薬会社の3社が選定されています。

講師の四日市大学経済学部・岡 良浩准教授は、もともと四日市地域で中小企業の研究をされていたそうで、セミナーでは

  • 日本のGDPのうち、4分の3がサービス産業(広義)で占められる。
    「製造業、建設業、農林水産業、鉱業を除く」すべての業種が広義のサービス産業である。1980年以降をとっても、国内GDPに占める製造業の割合が15年間で15%も下がっている一方で、広義のサービス産業は10%近く伸びている。
  • 労働生産性は従業員1人の就労時間あたりの、事業者がつくりだす付加価値
  • 運輸、卸小売、宿泊、飲食、医療、介護・保育などのサービス産業は、製造業に比べ労働生産性が低い。 とくに宿泊業・飲食業の労働生産性が低くなっている。
  • 政府は2020年をめどに国内GDPを現在の500兆円から600兆円に増やすという目標を設定し、増加分100兆円のうち90兆円の伸びしろをサービス産業で占めたいと考えている。

などの説明がありました。

講師

【おもてなし経営】を実践するために、サービス事業者が教育訓練の一環で、大学などと連携する例が増えています。四日市大学経済学部では「産学連携による伊勢志摩『おもてなし経営』のための人材育成事業」というプロジェクト(要するに大学のカリキュラム)を立ち上げ、【観光業における経営をになう中核人材の育成】を目的とし、接客技術やインバウンド、経営力の向上などの実践教育を行っているという事です。

「現地演習は伊勢志摩鳥羽地域をフィールドとした12日 を想定し、学生が企業または観光者に対する取材を行い、取材結果を一定のシナリオに基づいて、広告媒体(映像)として制作することを目標とする。」という四日市大学の取り組みについてご説明がありました。

今回のセミナーでは、サービス産業の労働生産性の実態や、国の取り組み、企業の収益を上げるためのモデリングなどを中心に1時間強の話が進められました。

おもてなしといえば、私も父方の故郷に近い熊野が好きで、よく熊野古道に出かけますが、道中で会う人はヨーロッパや英語圏の人が日本人よりも多くなっています。古道沿いの英語などで書かれた道路標示や洋式トイレ(シャワー付きもある!)が急速に普及している他、個人経営の宿でも改築に余念がありません。訪れる彼らは当然ながら外国語(英語)がホテルや駅、観光地で通じるかどうかを再来の重要ポイントに挙げています。大抵の人は畳に布団敷きでも問題はなく、和食にも慣れているようです。そしてゲストルームが狭いというような苦情もあまりないようです。そして、彼らは日本人よりかなり長いバケーションを楽しんでいます。

今回は【おもてなし経営】についてのセミナーでしたが、「需要を掘り起こす」ための努力が一番大切な事だと感じました。労働生産性が低いからと言って、客単価を上げるわけには行きませんし、サービス産業にとってそれは永遠のテーマかもしれません。

(取材ボランティア:中村充)

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017「おもてなし経営とは何か〜科学と実践の最前線〜」

日時 2017年7月15日(土曜日)
会場 三重県文化会館1階 レセプションルーム

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