三重県総合文化センター ブログ

取材ボランティアレポート「楽楽浪曲塾」

楽楽浪曲塾

小さいころ、つけっ放しのラジオからよく浪曲が流れていたのを覚えています。
「旅ゆけば駿河の国に茶の香り、ここは名に負う東海道・・・」
「佐渡へ佐渡へと草木もなびく、佐渡は居よいか住みよいか・・・」
「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ、頃は六月中のころ・・・」
などなど、出始めの文句は今も覚えています。どの曲も私の心の奥深くにあり、聞けばともに口ずさめて、とても懐かしい思いに駆られます。それがどうしてなのか、今日この浪曲塾に参加させていただいてよく理解できた気がします。

楽楽浪曲塾

まず、浪曲は七五調でできていて調子が良いということがあるのです。私が覚えている上記の浪曲の出だし部分も、よく数えてみると七と五の音のつながりでできています。これに節をつけて三味線を伴奏として歌うのです。歌う声に裏声は使わないと春野恵子さんは言われましたが、低い声、中くらいの声、とても高い声まで、すべて自分の表の声で歌いきるというのですから、たいへんな修行がいったことと思います。そういえば、昔ひしゃげた声で浪曲をうなっているのを聞いた覚えがありますが、そうした独特の声になる程まで激しい練習を積んだということでしょうか。

浪曲には、節をつけて歌う部分のほかに、「啖呵(たんか)」といわれる、一人で登場人物のセリフを言う部分があります。この「節」と「啖呵」が交互にうまく配されていて、聴衆はどんどんと浪曲の世界の中に引き込まれていってしまいます。

楽楽浪曲塾

浪曲は、一人一節と言われるように、伝統に増して創造が重んじられ、先人と違った語り口や演出が期待される世界なのだということでした。絶えず自己研鑽を重ね、自分独自の芸風をこしらえあげていかなければならないということは、とても大変なことである反面、ゾクゾクするほど楽しいことでもあるのかもしれません。三味線の方と二人三脚でどん欲に新しいものを求めて努力研鑽を重ねていかれる素晴らしい人生の在り方をそこに見させていただいた気がします。 

今日は真山隼人さんと春野恵子さんの浪曲を聞かせていただきました。高低自在に変化する「節」と「三味線」と「啖呵」が聴衆の心を鷲掴みにし、知らないうちに私は物語の中へと引き込まれていきました。そして山場になると多くの人が涙を流していたようです。私も例外ではありません。浪曲の在り方全てが、人の心を揺さぶって来るのです。久しぶりに聞いた浪曲でしたが、こんなに素晴らしい芸能が日本にはあったのだと再認識することが出来ました。会場で買い求めたCDをかけて今も余韻に浸っています。これからも大いにご活躍され、何年か後にはまた更に新しい名調子を開花されていかれることを期待しています。

(取材ボランティア:興味津々子)

取材したイベント

楽楽浪曲塾〜浪曲の世界へようこそ〜

日程 2018年5月4日(金曜祝日)
会場 三重県文化会館 小ホール
講師 前田憲司さん
出演 浪曲師 春野恵子さん 曲師 一風亭初月さん
   浪曲師 真山隼人さん 曲師 沢村さくらさん

取材ボランティアレポート「楽楽平家琵琶塾」

平家琵琶塾

毎年、楽しみにしている「楽楽シリーズ」。
今年は、800年の歴史を持つ伝統芸能、平曲。

平曲とは、盲目の琵琶法師が語る「平家物語」のことで、高校の古典の授業で、古い録音を聞かせていただいたかすかな記憶があるばかり。教科書1ページ分の文章が、平曲になると30分くらいの長い語りになっていて驚いたことを覚えている。

ライブ演奏を聴くのは初めてなので、前日に軽く、平家物語の現代語訳をパラパラめくって予習して、いざ!本番を迎えた。

平家琵琶塾

第一部は、林和利先生による解説。先生が強調されていたのは、世間では、「平家物語」の本文が先にあって、それを琵琶法師が語ったと思われているが、事実はその逆で、琵琶法師が語っていたものを書き留めたのが「平家物語」。つまり、「平家物語」は語り物としてそもそも発生、発展したものだということだ。

もう一つのポイントは、琵琶法師は僧侶だということ。つまり、平家の物語は、平家の怨霊を鎮める目的で語り始められたということだ。そう考えると、短い文を、長い節回しをつけて語る意味というのがよくわかる。魂鎮めのため、心をこめて語りかけていたのだから。

平家琵琶塾

さあ、いよいよ、第二部。今井検校のライブ演奏が始まった。

実は、もっと琵琶をかき鳴らすものだと思っていたのだが、琵琶が2、語りが8くらいの割合で、語りがメインで平曲は進んでいく。今回の演目は、平家物語で最大の山場「那須与一・扇の的」。古典の日本語で語られるので、難しいはずなのだが、音楽だと思って語りのリズムに身を任せていると、だんだんと目の前に海上の船の風景がひらけてくる。ずらりと並んだ平家と源氏の人の群れ。弓矢が見事、扇の的に当たり、扇が空に舞った瞬間、敵も味方もそろってどよめいたクライマックスのシーンは、戦というより、スポーツのようだった。日本人は、敵味方に分かれて戦うことを、「紅白〇〇合戦」という。それは、源平の合戦の色分けに由来するのですよ、と林先生がおっしゃっていたが、「紅白」といえば「合戦」を連想するほど、日本人の意識の中に源平の合戦を深く埋め込んだのは、琵琶法師にちがいない。

何しろ、800年続いてきた伝統なのだから。

しかし、今、平曲は存亡の危機に立たされている。平曲を本格的に語れるのは、今井検校ただ一人だというのだ。会場からも、「後継者問題」を危惧する質問が出ていたが、今のところ、後継者の候補すら、みつかっていない状況だという。「盲人」で「男」という条件があり、さらに、変声期より前に平曲を始めなければならないので、人材がいないのだ。幸い、今は、録音・録画の技術があるので、DVDを作ったり、楽譜に書き起こしたりして、残すための努力は続けておられるそうだが、口伝えでないと伝わらない神髄を継承してくれる誰かが、近い将来現れることを心から願う。

どんなに時代が変わっても、人が生き続ける限り、魂鎮めは必要だから。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

楽楽平家琵琶塾〜諸行無常の世界〜

日程 2018年2月28日(水曜日)
会場 三重県文化会館 小ホール

取材ボランティアレポート「文楽レクチャー」

近松門左衛門の曽根崎心中については知っていた。
たしか、国語の教科書の「文学史」のページに載っていたし、日本史の授業でも習ったはず。
が、しかし。
見たことはない。
なぜだろう?名作といわれているのに。
おそらく、「わざわざ」文楽劇場まで見に行かなければならないのと、全く何の予備知識もなく見に行ってもおそらくわからないだろうという敷居の高さがあるからだ。
そんな私に、ついに!文楽デビューする機会がやってきた。

チラシ画像

なんと!

三重県総合文化センターで、「三重公演」が行われるのだ。
3月21日(水曜・祝日)という、桜の花もそろそろ咲こうかという春のうきうき気分でお出かけできる日取りも嬉しいし、加えて、事前に「なぜ心中しなければならないのか 文楽の『心中物語』を紐解く」という内容の「文楽レクチャー」が行われるというので、昨年暮れに申込みをした時からずっと今日を楽しみにしていた。

講師は、三重大学人文学部准教授の田中綾乃先生。哲学がご専門だが、長年の観劇歴から歌舞伎や文楽の解説なども精力的になさっているとのこと。

今日は淡いピンク色のお着物をお召しになり、やわらかい語り口で、難しい言葉で書かれた詞章をやさしく、おもしろく解説された。

3月21日の文楽公演の演目は「心中二題」。昼の部が「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」夜の部が「曽根崎心中」。どちらも心中物なので、なぜ、心中がこんなに日本人の心を惹きつけるのか?というテーマでお話が進んだ。先生によると、男性が死ぬ理由は、必ずしも色恋沙汰だけに限ったことではなく、お金の問題など、他の理由もある。興味深いのは、男性は自分一人で死のうと決意するのだが、それを聞いて「いっしょに死にましょう」と言い出すのは必ず女性。意志を持った強い女性と、ダメな男の組み合わせが心中しているという分析に、会場からため息が。人物の相関図を見ながら、人間関係のしがらみについての解説が始まると、おもしろくて、おもしろくて、あちこちから笑いが起きた。

なぜ、文楽がおもしろいかって?

それは、どうにもならない人間模様が、人形を通じてデフォルメされて表現されているからだ。生身の人間が演じると生々しすぎる心中物も、人形を通じて見ると、悲劇なのにコミカルに見え、心中がいいのか悪いのか、といった一種哲学的な問いを飛び越して、よくある浮世の物語としてスーッと心に入ってくる。いわば、現代のアニメのような役割が当時の文楽だったんじゃないか、そんな気がした。

3月21日が今からとても楽しみだ。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

【文楽レクチャー】なぜ心中しなければならないのか?文楽の「心中物語」を紐解く

日程 2018年2月2日(金曜日)
会場 三重県文化会館 小ホール

取材ボランティアレポート「第65回名盤を聴く」

講座風景

ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」が終わると、自然に会場から拍手がわき起こる。
1983年に録画された古い映像を見ていることなど、誰もが忘れていた。
まるで、目の前で生演奏を聴き終わったかのような高揚感。
久しぶりに鳥肌がたった。

2002年から続いている「名盤を聴く」。第65回の今回は「エフゲニー・ムラヴィンスキー特集 第二弾」。「第二弾」とついていることからもおわかりのように、ファンからの強いリクエストに応えて、2006年の第一弾から約10年たった今年、待望の「ムラヴィンスキー特集 第二弾」が実現した。

今回の映像は、1983年に、ミンスク・フィルハーモニー・ホールで録画されたものなのだが、ソ連時代の古い機材で録画されていたため、日本の最新の技術で変換し、ようやく日の目をみることになったそうだ。いわば、日本人のムラヴィンスキーに対する熱い思いが、幻の映像を復活させたといえる。ただ、映像の状態は極めて悪く、途中で映像が途切れたり雑音が入ったりする場面もあった。

しかし、そういう古さがあるため、かえってライブ感があってワクワクした。なにより、指揮者のムラヴィンスキーの表情を至近距離でじっくり見ることができるのがよい。指揮者は普通、聴衆に背中を向けているので、時折ちらっと横顔が見えるくらい。ということは、指揮者自身も、曲が終わるまで、聴衆の表情を見ることはできないわけだ。しかし、背中に注がれる熱い視線を感じないわけはなく、本番中、背中に感じるプレッシャーはとてつもなく重いに違いない。

講座風景

今回は、演奏の映像だけでなく、リハーサルの様子やインタビューの映像もじっくり見ることができた。リハーサルは、一小節、一小節区切りながら、ていねいにすすめていく。決して妥協することなく。まるで、音楽大学の学生が譜面とにらめっこしながらピアノの練習をしているかのような細かさ。しかし、壮大な交響曲も、ひとつひとつの音符の集まりなのだから、当然のことなのだ。そうやって、ひとつひとつ、ていねいに積み上げていった音が響き合い、ひとつに溶け合った時、指揮者ムラヴィンスキー自身が言う「至福の時」が現れる。私は残念ながら、ムラヴィンスキーの演奏を生で聴くことはできなかったが、今回の「名盤を聴く」に参加させていただいて、まるで生の演奏を聴いたかのような感動を味わうことができた。

インタビューの中でムラヴィンスキーは、演奏に求められるのは、「客観性」や「正当性」ではない。「それは正しいのか?」という問いは無用だ。重要なのは、「説得力があるかどうか」。この演奏で、聴衆を説得することができるかどうか、それだけが求められるのだと言っていた。だから、例えば、ムラヴィンスキーの十八番ともいえるショスタコーヴィチの交響曲第五番であっても、通しリハーサルは納得のいくまで、最低10回は繰り返すのだという。オーケストラは他人との共同作業で音を編み出す作業であり、指揮者には指揮者の、団員が100人いれば100人の曲に対する思い、イメージというものがあるのだから、それらをぶつけあい、新しいものを創造していく作業というのは、苦しいものなのだ。ムラヴィンスキーが指揮台のことを「処刑台」と呼んでいたのが、大変印象的だった。長身痩躯のムラヴィンスキーは、胃が悪く、少食だったためやせていたとのこと。若いころは大げさなパフォーマンスだと言われるくらいダイナミックな指揮をしていたが、晩年は、指揮棒も使わず、動きを最小限に抑え、視線を送るだけで団員と意思疎通を図っている場面も多く見られた。たとえ、リハーサルであっても、長身のムラヴィンスキーが背筋をピンと伸ばし、指揮台に立つだけで場に集中力がみなぎる。これこそ、「巨匠」の存在感なのだろう。

講座風景

ロシア語のインタビューを聴いていると、ムラヴィンスキーの話す言葉自体が音楽のようだった。ムダがなく、流れるように途切れなく続いていく言葉たち。言葉はわからないけれど、ずっと聴いていたい気がした。

録音嫌いだったムラヴィンスキー。ひとつの理由は、彼は極限までピアニッシモを抑えるので、録音では音が拾えないということもあったという。しかし、現代のテクノロジーで、幻の映像が見られるようになったことは本当に嬉しい。

帰りに、多くの方が、次回の「名盤を聴く」の申込みをしていったのが印象的だった。生演奏を聴くのと同じくらい、もしかすると、それ以上の感動をもらえる「名盤を聴く」。もちろん私も次回も参加するつもりだ。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

第65回名盤を聴く エフゲニー・ムラヴィンスキー特集 第二弾

日程 2017年12月16日(土曜日)
会場 三重県生涯学習センター2階 視聴覚室

取材ボランティアレポート「男女共同参画フォーラム みえの男女2017 減災・復興と男女共同参画」

講演風景

熊本地震から1年、東日本震災から6年。
いま改めて、減災・復興と男女共同参画について考える。

そんなテーマで行われた今年の男女共同参画フォーラム。
会場には、「防災」「災害」「避難所」などの言葉が飛び交い、いつもの男女共同参画とはちょっと違うハードな雰囲気が漂う。

なぜ、防災に男女共同参画?

そんな戸惑いの声もちらほら聞かれる中、始まった基調講演。冒頭、今までは、科学が進歩すれば地震の予測が可能になるという前提で様々な防災計画を立てていたが、科学が進歩したおかげで、逆に、確度の高い予測は困難であるということがわかり、その前提で防災計画を練り直しているというショッキングなニュースがもたらされた。

ええっ?やっぱり地震がいつ、どこで起きるかは予測できない?じゃあ、私たちはどうすれば?

日本では、大きな災害が起きるたびに、その経験をもとに、防災計画が見直されてきた。熊本地震は、「避難者の姿が多様化しつつある」という教訓をもたらした。指定避難所に行かず、車中泊をする人。物資だけを取りに避難所に来る人。日本語のほとんどわからない外国人の方。障がいがあるため、避難所生活が特に困難な人。妊婦さん。介護が必要な人、などなど、多様な人が、多様な支援を必要としていた。実際、熊本には、指定避難所だけでなく、小さな避難所がたくさんでき、さまざまなニーズにこたえようと多くの人が関わった。この経験からわかったことは、大規模災害時に、行政にすべてを任せることは難しいということ。今までは、何もかもやろうとしていた役所が、住民のみなさんに対して「自助」「共助」をお願いしますと言い出したことは、実は画期的なことなんですと講演者の佐谷説子さんがおっしゃっていたのがとても印象的だった。

パネルディスカッション

パネラーの松浦信男さんは、阪神淡路大震災で工場をなくした経験から、「自助」の重要性を痛感し、現在の工場にはいざという時に困らないようにするための工夫をこらしているという。災害の記憶を風化させないためには、家族ぐるみ、会社ぐるみ、地域ぐるみの取組が必要なのだ。

熊本地震では、役場の建物が損壊したり、データベースがなくなったりして行政機能が低下し、1日1,000人近い応援が他の自治体から入ったという。パネラーの山本康史さんが、数多くのボランティア活動に関わってきた経験から、災害の時に最も大切なのは、「受援力(じゅえんりょく)=助けてもらう力」です!と、強調されていた。「助けられ上手」になるためには、自分が今、どんな状態で、どんな助けが必要なのか、ということを、解決する力のある相手に適切に伝えること。助けてもらったら素直に「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えること。そういう能力こそが、いざという時に命を救う。そして、そういう能力を身につけるために、平時からさまざまな訓練を積み、コミュニケーション能力を高めておくことが、助ける側にも助けられる側にも必要なのだ。防災対策というと、家具の固定をしたり、避難経路を確認したりということにばかり目が向いていたが、コミュニケーション能力を高めておくことも危機管理のひとつなんだと学んだ。

フォーラムの様子

東日本大震災でも、熊本地震でも、多くの避難所で女性たちが意思決定の場に関わってこなかったことが原因で、不自由を強いられ、苦しんだと報告されている。多くの家庭で、家計をはじめ様々なことをマネージメントしているのは女性なので、女性が苦しめば、子どもも苦しむし、介護をされている家族も苦しむ。つまり、弱者に大きな負担がかかるということだ。「災害現場で男女共同参画なんて!」という声も聞こえるが、決してこれは、女性のためだけではない。避難所という狭い空間に、多様な人が集まってくる以上、多様なニーズがあり、避難所運営は柔軟であるべきで、そこに女性の視点が必要なのは明らかである。まず、女性の声を聞くことから、多様性を受け入れる柔軟な対応は始まり、外国人や障がいのある方など、さまざまな弱い立場の人達の声を聞くことにつながっていき、結果として、多くの命を救えることにつながっていく。

講演者の佐谷説子さんはまた、「数字を集めよう」ということを強調されていた。「授乳で困っている人がいます」ということを漠然と言っただけでは具体的な支援には結びつかないけれど、この避難所に授乳に困っている女性が5人います、というようにきちんとデータを示してもらえれば、ボランティアもすぐに対応できますと、パネリストの山本康史さんもおっしゃっていたように、数字は支援を呼ぶための大きな力になるのだ。ただただ、がんばろう!という根性論ではなく、科学的に解決しましょうという呼びかけに、会場中が大きくうなずいた。

「減災・復興と男女共同参画」は、これからの防災対策に欠かせない大事な視点。
大きな宿題をもらった気がするが、コミュニケーション能力は女性の得意分野でもある。
みんなで力を合わせて、大きな災害時に生き抜く力につなげたい。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

男女共同参画フォーラム 〜みえの男女(ひと)2017〜
減災・復興と男女共同参画 地域・企業・行政がいまできること

日程 2017年11月11日(土曜日)
会場 三重県男女共同参画センター「フレンテみえ」多目的ホール他

【取材ボランティアレポート】日本人はどこから来たのか?3万年前の航海徹底再現プロジェクト

講演風景

「日本人は大陸からやって来た」。

 何となく、そう信じてはいた。

マンモスも、仏教も、漢字も、豆腐も、元はといえば、み〜んな大陸からやって来たのだから、日本人も同じルートをたどったのだろうなあと思ってはいた。
マンモスはたしか、日本列島が大陸と地続きだった時に歩いてやってきたはず。
仏教は船に乗って中国に渡ったお坊さんたちが、必死の思いで持ち帰ったんでしょ?

じゃあ、そもそも日本人は、いつ、どうやって来たの?

 「最初の日本人は、3万年以上前に海を越えてやってきました。その証拠に、約3万8000年前頃(後期旧石器時代)の遺跡が日本中で1万箇所みつかっているんです」。

海部陽介さんのお話は、3万8000年以前の遺跡が日本ではみつかっていないこと、3万8000年前を境に、どっと遺跡が増えるということは、その頃に何かが起こった、つまり、誰かがどこかから来たと考えるのが自然だというところから始まり、実は、その頃というのは、ホモ・サピエンスが全世界に広がり出した時代なんですよ、とテンポよく展開していった。原人・旧人にはできなかったがホモ・サピエンスにはできたこととは何でしょう?という質問が投げかけられると、会場中から一斉に「海を越えた」「寒い地方に行った」という声が次々あがる。まるで、アクティブ・ラーニングの教室のようだ。開始5分であっという間に聴衆は海部さんの話術に引き込まれ、すっかり3万年前の航海再現プロジェクトの乗組員になったかのような気持ちになった。

講師

具体的には、台湾から与那国島の航海を再現するのがこのプロジェクトの目的。なぜなら、当時、大陸と日本は、少なくとも沖縄ルートは陸続きではなかったので、船に乗って渡ってきたということがわかってきたからだ。つまり、海部さんたちが取り組んでいるのは、人類が最初に作った船を再現しようという試みでもある。

船の材料としては、草、竹、丸木の3つの可能性を考えており、まずは草で作ることに取り組んだ。材料を草にするだけではなく、道具もすべて、当時の遺跡から出たものを使うから、例えば、草を刈るのに鎌を使わず、石器を使ったり、方角を見るのに道具を使わず目視に頼るとか、すべて手探りで当時の状況を再現していく。ありとあらゆる英知を集め、成功に向けて、日本だけでなく、台湾も巻き込んだ一大プロジェクトになっている。

第一回目の実験の様子を撮った映像を見せてもらった。ようやく船の準備が整って、海にこぎ出すのだが、たった7人の男女が、笠帽子をかぶって、波間に木の葉のように揺られながら、小さな草の船を必死で漕いでいる姿を見ていたら、思わず手に力が入ってしまった。がんばれ!負けるな!でも、無理しないで!無事で帰って来て!

結果として、1回目の実験は失敗に終わってしまったのだけど、2019年の本番に向けて、準備は着々と進んでいるという。

実験の様子はテレビ番組にもなっているので、ぜひご覧いただきたい。

講演が終わるころには、すっかり海部陽介さんを始め、プロジェクトのメンバーのファンになってしまった。もしもこの航海が成功すれば、日本人のルーツに関する研究が大きく前進することは間違いない。私たちの祖先が、人類初の航海を成功させて渡ってきたなんて、何て誇らしいんだ!しかも、それを実証したのが日本人のチームだなんて、私たちにとって大きな自信になる。

お名前に「海」の字が入っている海部さん。自ら現場に出て陣頭指揮をとっておられ、すっかり日焼けして、その横顔が精悍な正真正銘の「海の男」。きっと3万8000年前にも、海部さんのような方がいて、海を渡って新天地を切り開くというロマンを実現させたにちがいない。

プロジェクトの成功を心から応援したい。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

日本人はどこから来たのか?3万年前の航海徹底再現プロジェクト

日程 2017年9月23日(土曜祝日)
会場 三重県男女共同参画センター 多目的ホール

【取材ボランティアレポート】見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

大野館長

みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

基調講演 博物館で若返る? あなたの脳年齢
講師 三重県総合博物館館長 大野照文さん

第2部 ミュージアムトーク
パネリスト 桑名市博物館:杉本竜さん、パラミタミュージアム:湯浅英雄さん、松浦武四郎記念館:山本命さん、斎宮歴史博物館:船越重伸さん、海の博物館:縣拓也さん
進行 大野照文さん

「博物館で若返る?あなたの脳年齢」という講座のチラシを見たとき、いったい何が語られるのかと大いに期待を抱き、すぐさま参加の申込みをしました。講座を聞いて、衰えかかってきた自分の脳が再び活性化できるヒントを得られるなら、これほどうれしいことはありません。

第一部の冒頭で大野照文さんが語られたゾウの歴史は、私の知的好奇心を刺激してくれました。約5000万年位前に初めてゾウがアフリカに出現し、各地へと移動しました。その頃日本は大陸と陸続きであったため、日本へもゾウはやってきており、化石がよく出てくるのだそうです。しかし1500万年位前に大陸の移動が起こり、日本は大陸から切り離されました。200万年前からは氷河期が始まり、またゾウが渡ってくるようになりましたが、1500万年前〜200万年前の間、海の中の孤島であった日本には本来ゾウはいないはずです。しかし、ミエゾウは500万年前〜300万年前に日本にやってきました。かれらはどのようにして日本にやってきたのか、これは今も謎だといわれました。

一体どのような方法で来たのかと考えると興味が湧いてきて、帰りにミエゾウの復元模型を見に行ってみました。なんという巨大さだろう。なるほどこれほど大きければ浮力も大きく、泳いで来られないわけがない。小さな人間でもドーバー海峡を泳いで渡るという快挙を成し遂げたという話をきいたことがありますが、この巨大さなら、朝鮮半島の先端から島伝いに九州へ、あるいは樺太から北海道へなら渡れたはずだと確信しました。一つの話から「好奇心が刺激され、観察、推理、そして確かめの連鎖が生まれます」という大野館長の言葉の通り、この日私は家に帰っても、次々と湧き起こる疑問(なぜ海を渡ったのだろう、なぜ多くのミエゾウが来たのかなど)解明の糸口を探して、インターネットに向かい合っておりました。

第2部

第二部では三重県内にある5つのミュージアムの学芸員さんから、学芸員になったきっかけや各ミュージアムの紹介をお聞きしました。その中で、私が特に興味を覚えたのは桑名市博物館です。市の博物館であるにもかかわらず、桑名藩や松平定信の関係資料・古万古焼・万古焼・浮世絵・刀(村正)など上質な収蔵品があり、展示会を自館の収蔵品でやれるということでした。これは、桑名に住んでいた人たちがお金持ちであっただけではなく文化への意識が高かったため、博物館へたくさん寄贈をされて貴重な文化財の散逸を逃れたことによります。ぜひ一度訪れて素晴らしい作品群を見てみたいものだと思いました。
「ここがすごいぞ」という松浦武四郎記念館、「祟り、祟られ、化け、化かされ」の斎宮歴史博物館、「骨まで愛して」と訴える海の博物館など、多くの博物館が魅惑的な言葉で私を誘っていて、今年の秋もまたとても忙しくなりそうです。

(取材ボランティア:興味津々子)

取材したイベント

見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

日程 2017年9月9日(土曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

【取材ボランティアレポート】見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

講演風景

秋です。
秋といえば、「芸術の秋」。
三重県生涯学習センターでも、毎週のようにワクワクするイベントが目白押し。

どれに参加しようかなあ・・・とスケジュール帳とにらめっこしながら計画たてるのも、秋の楽しみのひとつ。たくさんあるイベントの中で、毎年、特に楽しみにしているのが「みえミュージアムセミナー」。

歴史の宝庫である三重県には、北から南まで様々な個性派の博物館・美術館があり、全部を回るのはなかなか大変なのだが、何と!「みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー」では、各地の博物館の館長さん・学芸員さんたちが一堂に会し、それぞれの博物館のおすすめポイントを熱く語ってくれるのだ。

第一部は、三重県総合博物館の大野館長が「博物館で若返る?あなたの脳年齢」と題して、好奇心の起源が、人類発祥の地、アフリカで生き延びるために必要な能力だったというお話から。ライオンなどの猛獣に襲われないようにするために、当時の人類は、周りをよく見て、少しでも怪しいことがあれば「あれは何だろう?」と興味を持って探求することが必要だったそうです。襲われそうになるという怖い体験をし、それを何とか乗り切ることができると「あ〜よかった!助かった!」という幸福感で満たされる。それが快感になって、人類は好奇心を持つようになったという。現代社会では、猛獣に襲われることはあまりないけれど、急速な環境変化に適応するために、今、また、好奇心が問われている。大人も子どもも、もっと博物館に行って、好奇心を刺激されたほうがいい。

第2部シンポジウム

第二部は、桑名市博物館、パラミタミュージアム、松浦武四郎記念館、斎宮歴史博物館、海の博物館から、館長さんや学芸員さんが集まり、「私が学芸員になったきっかけ〜学芸員が紡ぐ三重の夢〜」と題して、熱いトークが繰り広げられた。

みなさん、決して恵まれた環境ではない中で、できる限り、多くの人に来てもらいたいという思いで日々、奮闘していらっしゃる。驚いたのは、三重県には、先祖から伝わる家宝を、公共性の高いものだからと、博物館に寄贈する篤志家の方が多くいらっしゃるということ。おかげで、予算が限られている中、所蔵品は充実しており、他県から貸し出し依頼が絶えない館があるとか。

また、なるべく多くの方に見ていただきたいという思いから、例えば、NHKの大河ドラマのテーマに合わせた企画展をしたり、参加型のイベントを開催するなど工夫をこらしているとのこと。博物館の学芸員さんは、実は想像よりもアクティブな方たちなのだというのが、今日、一番の発見だったかもしれない。

実は、今日のシンポジウムに参加していた博物館の中で、地理的に遠いためまだ行ったことがない場所が一か所あるので、この機会にぜひ行こうと心に決めた。

館長さんや学芸員さんのお話を直接聞くと、親近感がわいて、何となくとっつきにくかった博物館が身近に感じられるようになったのも今日の収穫。

芸術の秋はまだまだこれから。

三重県内の博物館周りをして、秋を満喫したいと思う。

(取材ボランティア:海住さつき)

取材したイベント

見る知る巡る!みえミュージアムセミナーの先ドリセミナー

日程 2017年9月9日(土曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「他者にひらかれたからだつくり 〜運動と身体機能の視点から〜」

講座の様子

みえアカデミック公開セミナー2017に参加しました。8月23日に開催されました高田短期大学の二つの講演のうち・柳瀬恵子准教授の講座を報告をさせていただきます。先生は小学校に10年間勤めてみえたということで、聞く人たちへの話しかけがとても上手でした。一人一人の目を見るようにして、笑みを見せながら、大きな声でゆっくり話して下さり、時々実習もあって、楽しく講座が聞けました。

「他者にひらかれたからだつくり」ということで、まず隣の人と自己紹介をしながら握手です。隣に姿を見ているだけの時と違って、実際に触れてみると、相手への警戒心が吹き飛んで親近感が湧いてきます。握手は融合したような感覚を生じさせる行為だそうです。心理的に言えば共感と同じということで、なるほどと納得です。

講師

次に相手の背中に両手の平を当てました。目を閉じて背中に意識を集中し、ゆっくりと手を放すと、温かい気持ちよさが広がり、前から知っていた人のような安心感を覚えました。ふれあい寄り添うことで、人も動物も、生命維持のための消費エネルギーを最小限にとどめることができるのだそうです。

人の身体機能は、ふれあいから進化が始まり、平衡感覚が育ち、距離感(嗅覚・視覚・聴覚)が発達するそうですが、老化するときにはこれが真逆になって、ふれあいの感覚が最後まで残るのだと言われました。人は温かい安心感に包まれたことにより、人として育ち、安心感に包まれながらこの世を終えていく、それが一番幸せなことなのだなあと痛感しました。

最近、若者の中には人との触れ合いが苦手な人が多いと聞きます。多くの方がこのような実習を体験することで、ふれあいの大切さを学んでほしいと感じました。今回は、実習があると理論が生きてくることを実感した講義となりました。本当にありがとうございました。

【取材ボランティア:興味津々子】

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017高田短期大学公開セミナー「他者にひらかれたからだつくり〜運動と身体機能の視点から〜

日程 2017年8月23日(水曜日)
会場 三重県文化会館 1階レセプションルーム

取材ボランティアレポートみえアカデミックセミナー2017「マティマティクスは数学か?」

講座の様子

小学校から中学校に上がる時、一番の衝撃は、「算数」の授業がなくなって、「数学」になることだった。何だ、何だ?どうして「算数」じゃいけないの?「算数」の範疇にあてはまらない、とんでもない難しい世界が開けてくるのか?そんな不安と期待で、最初の「数学」の授業にのぞんだ私を待っていたのは、xだのyだのといった、英語の授業でしかお目にかからないと信じていたアルファベットが数式に出てくること。ええー?どういうこと?むずかしくて、わけわかんないよ・・・

今回のみえアカデミックセミナーのお題は、「マテマティクスは数学か?」
マテマティクスという学問の名前が正式に「数学」と決められたのは、明治15年。そのことに、三重県がかかわっているという。

講師

お話は、鳥羽商船高等専門学校の佐波学教授。実は、鳥羽商船高等専門学校の前身は「攻玉社」という塾。幕末維新期に、慶應義塾・同人社と並び、三大義塾と称された名門塾で、主に、理工系を目指す塾生が通っていた。明治7年に、351名の塾生が所属したという記録が残っている。攻玉社の創設者は近藤真琴。近藤真琴は、帝国六大教育家の一人と称された。ちなみに六大教育家には、福沢諭吉、新島襄らが名を連ねる。攻玉社は、東京にあったのだが、なぜそれが鳥羽に?

実は、近藤真琴は鳥羽藩主だったのだ。海軍、海運、土木などを教える研究所を作り、鳥羽にはよい港があったことから、分校を鳥羽に作った。それが後に、鳥羽商船高等専門学校になったというわけだ。

攻玉社は数学の授業に定評があり、この時代の中等学校の数学の先生は、攻玉社で学んだか、攻玉社で学んだ先生について学んだか、あるいは、攻玉社で学んだ先生が書いた教科書で学んだかのいずれかだと言われたという。

明治10年、日本数学西洋数学を問わず、互いに気脈を通じさせようとの目的で、東京数学会社が結成された。そして、「西洋数学の術語の訳語を決定する」という目的のために、訳語会を作り、ひとつひとつの専門用語について、どんな訳語をあてるか、議論をした。時には訳語が決まらず、ひとつの単語をめぐって何時間も議論したという。そんな、「紛糾した用語」のひとつが「マテマティクス」。「算学」「数学」「数理学」という3つの候補が上がり、どれにするか、真剣な議論が展開されたという。最終的に「数学」が選ばれ、今日に至るわけだが、国の要職につき、多忙を極めていた人たちが、ひとつの単語の訳をめぐって、何度も会議を開き、侃侃諤諤と議論をしたなんて、やはり、明治時代の人たちの国造りにかける情熱は熱かったのだ。

日本の数学界の基礎を作った人物が三重県出身で、その精神が脈々と受け継がれた学校が今もあるなんて、なんだか嬉しくないだろうか?苦手な数学がちょっぴり好きになった一日だった。

【取材ボランティア:海住さつき】

取材したイベント

みえアカデミックセミナー2017マテマティクスは数学か?〜 攻玉社と幕末維新期の「数学」〜

日程 2017年8月20日(日曜日)
会場 三重県文化会館 レセプションルーム

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