第4回 三重県男女共同参画条例施行10年を記念して

  三重県男女共同参画条例が施行されたのは2001年1月1日ですから、今年は丁度10年目に当たります。この10年、官民それぞれに努力をされてきましたので、地道ながらも成果が上がってきたと言えるのだろうと思います。現実の行動としてはまだとまどいがあるにしても、建前としては男女共同参画に理解を示す動きが広まってきたよう感じられます。

 しかし、条例ができた頃にはまだ表面に出てこなかった問題も現れてきました。そのいちばん大きなものは情報関係の諸問題でしょう。

 条例で情報関係の叙述が薄いのには理由があって、マスコミ、メディアへの対応が難しいという状況がありました。思想の自由、表現の自由との関係で、男女共同参画の側からマスメディアへ何らかの要望とりわけ制約を含んだ要望をするのは極めて慎重を要することであったからです。

 それだけではありません。当時あまり認識されていなかったのがパソコンのインターネットの問題で、今ほどの発達を見るとはまだ予測されていなかったのです。それは人々の生活に多くのメリットをもたらしましたが、同時にブログ、サイトの発展が、思わぬ人権侵害や男女共同参画への障害をもたらすことが分ってきました。発信者不明の意見の横行が安易に人を傷つけてしまう、そのあたりが10年前にはまだ把握されていませんでした。

 もし10年経って県条例が見直されるべきだとすれば(状況に応じて見直しをはかるべきことは条例自身が触れているはずです)、上記のように非常に難しい側面を持ってはいるものの、情報世界についての項目が、十分な議論を経て補足さるべきものだろうと思われます。

 新聞、テレビ、ラジオまたインターネットはいずれも本来言語を基本的な要素としているはずです。ひとからひとへの伝達力が言語の特性で、それこそまた人間の理性の属性でもあるわけです。すべての文化の基礎に言語がある、というのもそこに理由があります。もちろん映像や音楽という非言語表象もあります。それらは五感に直接訴えるという点で強烈な力を持っていてその点では言語に遙かに勝るものがありますが、ひとからひとへの伝達力はほとんど持たない、という点で劣っていました。ですから、今までは絵画や映画や音楽はひとがその場、映画館や音楽ホール、美術館などに自分で出向いて享受するしかなかったわけです。

 問題は、今や映像や音楽のほうが茶の間に侵入してきていやでもその力に対面することになってしまったということなのです。非言語表象は圧倒的な力で迫ってきて受け取る方はその内容の変更や享受の度合いを自分で調節するわけにはいかない。本来は美術館や映画館音楽会にいつどれだけの時間を割くかを自分で決める、ということによって調節してきたのですがそれができなくなってしまいました。主役であるはずの言語が脇役になってしまいました。それだけ操られる危険が遙かに増大しているわけです。

 たとえばそういう環境の中で政治の世界も変化しました。選挙一つとってみても、私たちは候補者の今まで示してきたはずの政治的な能力、努力よりも、テレビで名が売れている度合いに応じて投票する、というように変わってきました。そうした側面を利用しないと選挙に勝てない、というのが現状なのでしょう。物事を正しく評価するというのはただでさえ難しいことですが、こうした状況のなかでさまざまな評価を正確にするにはどうすればよいでしょうか。

 紙面も残り少なくなりました。長々と述べる余裕はありませんので結論だけ申しますと教養を身につけるということに尽きるだろうと思います。教養というのはつまりはさまざまな知識を吸収しそれを使って多くのひとと論議をする、ということに他なりません。論議というのは言葉を使うということですが、映像だけでなく言葉も放っておくと妙な力を持ち始めるもので、たとえば戦時中の「非国民」という語のようにいったんレッテルとなると抗い難い力となる危険をはらんでいます。そのようにレッテルになる前に言葉は野球のボールのようにやりとりをしないと正しい価値が付与されないという性格を持っているのですね。

 テレビやインターネットなどで一つの言葉が流行りだしたら、それを当たり前のように受け入れる前に、自分の持っている知識で検討し、ひとと論議をして評価をしないと危険です。

 これだけ男女共同参画や人権の中身が多様化すると、相互に衝突することがあります。よく挙げられる例に、リプロダクティヴ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康/権利)の部分で、女性の産む権利と胎児の生まれる権利の衝突があります。そもそも胎児が人権を有するか、というのは難しい問題で、人権とは何だろう、という根本的な疑問に突き当たるでしょう。たとえばもし子どもにそのように聞かれたら答えられるひとが何人いるでしょう。

 これらの問いに多分私たちは答えなければならないのでしょう。そして何らかの答えが出るとしたら、それは多分(多分という語がしょっちゅう出ますが)教養がベースにあるはずです。
 三重県男女共同参画条例の施行10年に当たってこのようなことを考えてみました。