第3回 社会構築に必要な男女共同参画

男女共同参画と個人主義(つづき)

  英語がうまい、と胸を張るというのは、ひとを「英語のうまいひと」「英語のうまくないひと」にグループ分けをして、前者をより評価する、ということにつながりますが、それはほとんど差別思想と言えそうです。そうだとすると、差別はまさしく人間(人間だけではないでしょうが)の本性に根付くもの、つまりアイデンティティの概念と深くつながっていると言えそうですね。

 それでは差別は根本的に除去できないものなのか、と言われそうです。実際「差別は本能だからしゃないやないか」というまことに単純明快な反論も横行しているくらいです。 もっとも大事なところだから少し考えてみましょう。

 よく、自然な生き方は貴重だ、とか、無理矢理本能を押さえつけた人間社会の生活は自然を見失ったゆがんだあり方だ、とか言われます。確かにそのような理屈にも耳を傾ける面もあることはあります。しかし、百歩譲っても、なぜ自然な生き方がいいのかが問題です。内なる自然的なものを、生きるエネルギーが消え失せるほど過度に押さえつけるのはよくないに決まっていますから。

 しかしそれでも私はいつも言っているのです。「文化は本能を押さえることによって進んできたのだ」と。オットセイの一夫多妻の生活と人間の一夫一妻(一夫四妻という社会もありますが)の生活、あるいは、強いものが食べ物を一人占めにする動物の世界と法で弱いものが守られている人間社会をそれぞれ考えてみても、人間の文化がいかに本能を制御することによって獲得されてきたのかがわかります。あるいはもっと強く言ってもいいかもしれません。「文化は本能を否定するところから生まれたのだ」と。
 繰り返すなら、差別はほとんど人間の本性といってもいいほど根強い悪だが、それでもそれをいかに除去するかをつねに考えなければ文化は進まないのです。

個人主義と男女共同参画

 そこでふたたび個人主義です。さきに、個人主義も歪んで利己主義になるか「他」の個人を自己同様に尊重するかが分かれ目だと言いましたが、差別についても同じことが言えそうです。自己のアイデンティティを大事にするのも、自己中心主義の誤った個人主義を取るか、「他」あるいは「他のアイデンティティ」を自己のそれと同じように尊重するかが分かれ道になります。
 はじめの、子どもを産まないという問題にかえりましょう。
 もちろん子供を産まない権利というものはあります。いかなる人によっても強制されないという権利です。それは個人のレベルでは誰でもが有する権利と言っていいでしょう。
 男女共同参画がいわゆる「女性の人権」(この表現が間違っているということは繰り返し述べてきたので今はもう申しません)のレベルにとどまっている限りはこれでおしまいです。また男女平等という差別問題のレベルにとどまっている限り、それは男性(夫や家父長制家族)に強要されない「女性の」(これも同じく誤った表現です)権利を主張するだけの概念です。
 しかし三重県で今まで考えてきた男女共同参画はそのレベルにとどまるものではありません。社会のあるべき姿、未来の社会像をも視野に入れるべき概念です。
 たとえば男女平等に対してこういう反対があります。「男は企業戦士として、休みなく毎日深夜まで働いて、いわば身を捨てて今の地位を得たのだ、男女平等というなら女性も同じようにやってみろ、できはしないだろう」というのです。もちろん家事や子育ての世界も意識して言っているのですが、それに対してある女性が同じように必死に企業のために身を捧げて(企業も男女の区別なしの対応をしたとして)男性と同じような地位を得、報酬も手にしたとします。その企業はその限りで男女平等をベースとした企業だし、そこではまさに男女平等が実現したわけです。そうした状況では先の反論は成り立ちませんし、男女平等もそこで達成されたと考えられます。
 しかし、一歩進んで、すべての企業や団体がそのような形で成り立っている社会、すべての男女がそのようにしゃかりきに活動している社会とはなんでしょう。多分そうした社会は、まともに子どもが育つ社会ではないでしょう。真の男女共同参画社会は子育ても含めみんながゆとりある生活を送れるものでなくてはならないはずです。今までは、男性が外に出て働き女性が家庭を守ってそれが成り立つ、と考えてきました。男女共同参画は、女性が男性同様に働ける社会ではありますが、「非」人間的に働きまくる男性同様に働ける女性を作るのではなくて、男性も女性もともに育児にも家事にも貢献できる(かといって分業を否定するものではありません)社会の構築を目指すものです。
 それは全体社会の行く末をともに視野に入れるものでなくてはならないはずです。望ましい比率で子どもが生まれる社会でもありますし、たとえば一夫一婦が壊されないような社会でもあるでしょう。ベースにあるのは、真の個人主義、他の個人を尊重し敬う個人主義、みんなで社会の有り様を考える個人主義であります。それでいて自由な思考を駆使できる構成員を持つ社会が目的とならなくてはなりません。
 男女共同参画はだからかなり重層的な課題です。
 こういったことを考える点で、三重県はかなり先進的な県であるはずです。今回は触れられませんでしたが、地球温暖化や経済危機で社会は大きく揺らいでいますが、未来の社会は男女共同参画をおいて展望はないと確信しているこのごろです。