第1回 男女共同参画推進について

はじめに

 三重県男女共同参画推進条例は平成12年10月13日に公布、平成13年1月1日から施行されました。制定からのこの10年間で社会情勢は大きく変わりました。この節目の年を迎えるにあたり、男女共同参画の理解を深めたいと思います。 

 2009年12月6日付け朝日新聞に“結婚「どちらでもいい」7割”という見出しの囲み記事がありました。2年前の同じ調査に比べ結婚はどちらでもいいと考える人が4.9%増え、特に20才代では87.8%を占めた、ということ、結婚しても子どもを持つ必要はないと考える人も増え、20歳代では63%にもなったというのです。また、「夫は外で働き妻は家庭を守るべきだ」という考えに反対する男性が51.1%とはじめて半数を超えたということで、これについて内閣府の担当者が「男女共同参画が着実に進んでいることがみてとれる」と説明したと報じています。
 いうまでもなく、夫は外で働き妻は家庭を守るべきだというのは男女共同参画に反する考え方で、その限りで喜ばしい傾向でありますが、問題はそれに先立つ記事との関係です。まさか内閣府は、結婚はどうでもいい子供も必要ない、という考えも男女共同参画意識の普及によるとは言わないはずですが、今までのアンチ男女共同参画の波の中でそう考える人がないでもない、というところが問題なのです。
 さらに懸念されるのは、男女共同参画を誤解した形で意識することによってそうした思考に至る若者がいるのかもしれない、ということです。
 ご承知のように男女共同参画という語が生まれてから10年以上が経過しました。その間様々な誤解があり、それに基づく反対も多く表明されていますが、そのなかに、男女共同参画は家庭の崩壊を招く、あるいは男女共同参画は少子化の原因である、というのがあります。これはなかなか根深いところがあって男女共同参画を考える際どうしても乗り越えなければならないものなので今回は少し掘り下げて考えてみましょう。

男女共同参画と個人主義

 人権という概念が個人主義に基づいていることはよく知られています。民主主義も同様ですが、要するに、近代の欧米思想というものは基本的に個人主義を根底に置いていると言っていい。ところがよく言われるように、この個人主義は明治以降ないし戦後日本に輸入されたとき、利己主義と混同されることが多かったのです。欧米の個人主義は前提としてまず「他」の個の尊重があるのですが、ともすれば「私」の個を尊重するよう他に押しつける、「私の勝手でしょ」「私の人権はどうなる」が横行する、これが新しい生き方だ、と思うようになってしまったのです。
 男女共同参画と人権問題との混同がこのことと重なって、「男女共同参画を推進すると家庭の崩壊を招く・・・」といった誤解が生じてきたのです。
 結婚はどうでもいい、子どもは必要ない、という考えが生ずるにはいくつかの理由があるでしょう。
 結婚しないでもそこそこ一人でやっていける生活環境やパラサイトシングルを許容するムードの成立、あるいは映像機器やパソコンの発達で一人で過ごすことが苦痛ではなくなってきたこと(疑似仲間の成立と私は呼んでいますが)とかいろいろ挙げることができますが、何よりも、他からの制約を嫌うという要素が一番強いのかな、と思われます。(もちろん、昨今の雇用問題など経済情勢による影響や「仕事と子育ての両立」ができる環境整備の問題など、自分の意志ではどうにもならない状況は別に検討しなければなりませんが・・・)。これらの原因をひとまとめにして、「他から制約を受けたくないし、受けなくとも何とか生活できる環境が成立していること」と言うこともできますが・・・。
 こうした若者たちの考え方が良いか悪いかは後に考えるとして、ここではそれが上述の個人主義とは何の関係もない、ということをまず申し述べたいと思います。
 つまり個人主義を標榜するからといって、今のような考え方になるということでは決してありません。
 夏目漱石に「私の個人主義」と題する講演があります。大正3年に学習院で行ったものですが、そのなかで漱石は自己本位ということを言い、人生の苦闘の中で遂に「自己が主で他は賓である」ことを悟ったと言いました。これを彼は個人主義と呼び、他者を無条件にあがめそれを受け売りするのではなく自分で考えることがその本質だと言っているのです。同時に、他を自分同様の個として受け入れることが大事だとも言っています。英国は嫌いだけれどもその英国こそそのような個人主義の成立している国だ、と評価していますから、イギリスの個人主義つまりわれわれの言ういわゆる欧米の個人主義とはそのようなものである、と漱石も思っていたはずです。言いかえれば、個人主義をベースとしている国こそ立派な国だ、と漱石は考えていたのでした。
 そこで改めて考えてみましょう。結婚はどうでもいい、子どもは持たなくてもいい、という考えをある人が持つとします。そう考えるのはその人の自由です。個人の思想としては否定することはできませんが、 もしその考え方が社会の構成員全体に広まったらその社会はどうなるでしょう。子どものいない社会に未来のないことは誰でもわかりますよね。社会成立の基本にあるべき個人主義がそのような社会を目指すわけはないのです。