第2回 人権保障、男女平等と男女共同参画の関係

男女共同参画と個人主義(つづき)

  遠い将来子どもがいなくなってその社会がなくなってもかまわない、あるいはそこまで言わなくとも、誰かが子どもを作るだろうし、とにかく私は子どもはいらない、と考える人がいたとします。その人に対してよってたかって非難をしたり、その考え方を理由に給料を減らしたりしたら人権侵害になるでしょう。誰にも思想の自由はあるのですから。しかし、かといってその思想が社会の存続にとって正しい思想だということにはならないでしょう。
 もちろん産まない権利というものはあります。そうした個人の論理と社会の論理の違いを考えたいと思います。社会のレベルと個人のレベルの違いとは何でしょうか。
 例を挙げればすぐわかります。産まない権利を誰も持っているからと言って、全ての人がその権利を行使したらその社会がどうなるでしょう。当然無くなってしまいます。
 なぜこのようなお話をしているかというと、2006年のゼミでも述べたことなのですが、我が国の男女共同参画の流れをみると、そのあたりの思考が欠けているような気がしているからで、その点を今回も強調したいと思ったからなのです。

 前回のゼミで私は、男女共同参画の理念について特に以下の3点に留意して頂きたい、その点を混同すると議論が混乱すると申しました。
 ①人権(侵害、擁護など)は個人それぞれの問題である。
 ②差別(反対、撤廃など)は集団間の問題である。
 ③男女共同参画は社会構築の問題である。
 
 何度でも言うことですが、男女共同参画を巡る議論の混乱の多くはこの3点についての明確な認識の欠如によって起こっているようです。

個人主義と男女共同参画

 差別が悪いのはそれが人権侵害につながるから、と思っている人は多いのですが実はそうではありません。前回も申しましたように、差別問題に起因しない人権侵害も多々あります。B少年が自分のおもちゃを汚したからといってA少年がBをいじめるのは人権侵害かもしれませんが、差別事象ではない。もし、Aが、Bの肌の色や出自が自分のそれと違うという理由でいじめるとき差別事象となります。逆に、江戸の侍が紅毛人を軽蔑すれば差別ですが、もし両者の接触がなければ人権侵害は起きません。
 繰り返し言うことですが、人権保障と言われるなかでもっとも根源的なものの一つに思想の自由があり、それは、ひとがどのような思想をもつかを問いただすことを否定しています。
 これに対し、差別反対の思想はひとが差別を考えること自体を悪と考えます。だからその要求は人権擁護とはまた別の立場からなされるべきものです。 男女平等の主張(これはとりもなおさず男女間の差別の否定の主張を意味します)が、単に(女性の)人権擁護というに止まらない性格を持っているというのはそうしたわけなのです。
 私は差別の悪は、それが人権侵害につながるから、というようないわば二次的な意味の悪ではなくて、人権侵害と並ぶ根元的な悪だと思っています。 誤解をされないように申しますと、私がこの二つを質的に区別するのは両者が二つともに根元的な悪だ、ということを強調するためなので、どちらかの悪性を薄めるためではありません。
 私は差別は悪だと申しました。今では理屈としてはこれを否定する人はあまりいないと思いますが、しかし実は非常に根深い深刻なものがそこにはあるのです。
 ここで私事を申しますと、昔は大相撲が好きで本場所となるとよくテレビを見ていたものでした。しかしこのごろはあまり見ません。正直なところ強い力士はほとんど外国出身の力士でそれが面白くないのですね。趣味とする囲碁でも昔は日本が遙かに高いレベルをもっていましたが、このところ世界戦では中国や韓国にずっと苦杯をなめさせられていてこれがまた面白くありません。同じ気持ちをもっている日本人は多いようですが、これは差別意識なのでしょうか。
 細かい議論をするときりがありませんが、少なくとも差別と紙一重のところにありそうですね。そうです、差別というのは人間の本質的な部分と関係しているところが厄介なのです。
 アイデンティティという語が流行っています。自分のアイデンティティを大事にしろ。会社、団体でもアイデンティティが大切だ、というように。よくいうアイデンティティとは簡単に言えば「他と違うこと」「個性」のことですが、哲学では存在の持続そのもののことでもっとも大事な概念の一つになっています。
 アイデンティティの主張とは、自分が他とは違う長所、例えば絵がうまい、美人だ、英語がよくできる、などを主張することですが、そうなると、絵がうまくない、美人でない、英語がうまくないといった人たちとは違う、という主張だということになります。そこを自慢するというのは差別にはならないのでしょうか。