第2回 学校の日常風景:埋め込まれたジェンダー不平等~隠れたカリキュラム~

.ジェンダー・ギャップの背景~メゾレベルから考える~

 この参画ゼミでは、学校教育におけるジェンダーを考えていくにあたり、マクロレベル・メゾレベル・ミクロレベルの3つの次元に分けて検討しています。前回は、マクロレベルとして、学校教育の制度的な側面を概観し、①戦後の教育制度では性別によって受けられる教育の年限や内容に関する制約はほとんどなくなったこと、②それにもかかわらず依然として大学進学状況などにジェンダー・ギャップがあることを捉えました。今回と次回は、ギャップの背景を探ります。
 今回着目するメゾレベルは、教室空間や座席、名簿などの論点がありますが、以下では教科書と教員組織に着目します。いずれも、鍵となるのは「隠れたカリキュラム」です。

.教科書とは

 学校で使用される教科書は、法的に位置づけられています。教科書の発行に関する臨時措置法で、「教育課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材」であることや、「文部科学大臣の検定を経たもの」などと規定されています。さらに、学校教育法において、各学校では「教科書を使用しなければならない」と定められています。教科書の使用に対する教師の裁量権が大きい国もありますが、日本の場合はその使用が厳格に規定されているのです。
 検定済みの教科書があるおかげで、全国津々浦々の子どもたちが出生地や生育環境に左右されることなく同じ内容の教育を受けることができます。しかし、伝達すべき知識内容の選択については、議論が絶えません。世の中のすべての知識を教科書に盛り込むことは難しい上に、歴史認識や家族観など価値観を伴う判断が必要なケースもあるからです。学校で教える事柄は「正しい」知識として広く国民に浸透しますから、「なにを」教えるのかは慎重にならざるをえませんが、こうした点は、各教科で教えるべき内容を示す教育課程(カリキュラム)の問題として議論されます。
 一方、教科書は教科で学習すべき内容だけを子どもたちに伝達しているわけではありません。個人的な経験になりますが、「どろんこ祭り」(小学校国語)の女児の描かれ方に不快感を抱いたことや、英語の教科書で読んだ黒人女性ローザ・パークスの話に感嘆したことをよく憶えています。そこから学んだのは、男勝りの女児が男児とのやり取りを通して恥じらいを覚えていくという知識であり、人種差別も勇気ある人の行動なしには解消に向かわないという知識でした。けれども、私が受け取った知識は国語科や英語科で「教授すべき」とされた正規の教科内容ではありません。このように、教科書は送り手が意図していない知識も伝えています。これを「隠れたカリキュラム」と言います。

.教科書の「隠れたカリキュラム」

 ユネスコは、教科書がジェンダー平等のための教育の手段となるとの見解を強く打ち出しています[*1]。そして、具体的な教科書の点検方法として、登場人物とその役割や活動内容を量的に把握することや、挿絵での人物の描かれ方の分析などを推奨しています。これらも「隠れたカリキュラム」として機能するため、それを読み解くことが大切だというわけです。
 この手法により、米国では、高校の世界史教科書の索引中の女性割合が1960年代の3.2%から、80年代には5.9%、90年代には10.6%に上昇したこと等が明らかにされました[*2]。同様の教科書分析は、他の国々でも行われました。ここではフランスの例を紹介しましょう[*3]。実社会では既婚女性の6割以上が働いているにもかかわらず、教科書中の女性の9割が主婦で、まれに登場する女性の職業は看護師や秘書などの「典型的な女性の」職業だったそうです。また、「男性的な」教科と認識される物理や数学などの教科書では女性への言及そのものが欠如しており、電気の差込口を点検する男子とショートを引き起こす女子といった性的偏見に基づく挿絵があったといいます。
 日本でもいくつかの調査が行われ、たとえば、小学校理科の教科書で、男女とも実験や観察に積極的に取り組む写真が使用されていた一方、挿絵では能動的な男子と物静かな女子といったジェンダー・ステレオタイプが反映されていることが明らかになりました。また中学校理科の教科書では、挿絵中の男女比はほぼ均等でしたが、教科書の著作者中の女性の極端な少なさが指摘されました。理科や数学の教科で扱う内容はジェンダーと無関係なのでジェンダーの問題は存在しないと考えがちですが、「隠れたカリキュラム」に着目するとそうは言い切れないことがわかります。
 このように、公式カリキュラムに基づいて作成される教科書にジェンダー・ステレオタイプが埋め込まれていることが明るみになると、結果的に子どもたちが「女の子らしさ/男の子らしさ」を学習してしまうとの懸念が高まり、少しずつ改善されました。現在の教科書では、人物よりキャラクターが使用されることも多く、ジェンダー・ステレオタイプに基づく表象は減っていると言われています。
 ところが、私の授業をとっている学生たちは、白衣を着て眼鏡をかけた男性の博士が解説している場面や、部屋で横になってだらしなく描かれる男児とまじめに描かれる女児といった非対称性がある挿絵を次々と見つけてきます。ジェンダー平等な教科書を作成するためのガイドラインがある国と違って、日本ではステレオタイプを帯びた表象が残っているようです。けれども、教科書が変わらなければジェンダー平等な教育ができないわけでもありません。教員志望である彼ら/彼女らは、教師になればこの教科書の使用は避けられないけれども、子どもたちに「女性の博士もいるよね」「だらしない女子もいるし」と補足しながら使うと話していました。教科書を使用する教師の意識や行動に、大いに期待がかかります。

.教員組織の構成

 そこで教師について考えてみましょう。一人一人の教師の教育行為は次回検討しますので、ここでは教員組織に着目します。
 教員は学校組織の構成員で、それぞれが役割をもっています。子どもたちの目には、校長先生や教頭先生、英語や数学の先生、あるいは進路指導の先生などと映ることになりますが、毎日のように目にする景色は子どもたちの「当たり前」を作っていきます。そのため、ジェンダー・バランスが整っていることが望ましいのですが、実際はどうでしょうか。
 グラフから、二つの特徴が読み取れます。一つは、特別支援学校や小学校のように職務遂行にあたりケア的要素が多い校種では女性教員が多く、受験指導などが伴う上位学校になると女性割合が下がることです。もう一つは、どの校種でも職位が上がると女性割合が下がることです。その他、理数系教科の教員には男性が、英語や国語、音楽には女性が多いなどの不均衡も見られます。こうした景色を通して、子どもたちは管理職や理数系は男性の領域であると学習してしまう可能性があります。

.隠れたカリキュラム

 「隠れたカリキュラム」を手掛かりに教科書や教員組織を掘り下げてみると、学校教育の場がジェンダー平等とは言い難いことが見えてきました。もちろん、教科書はジェンダー平等なメッセージも多々発していますし、多くの教師はジェンダー平等が大切だと教えているはずです。それでも、子どもたちが、何年も過ごす学校生活の日常に少なからぬジェンダー不平等が潜んでいれば、自身の性別をそれに投影して生き方や考え方を狭めてしまいかねません。
 しかし、工夫の余地はあります。次回、ミクロレベルに着目しながら検討していきましょう。


[*1] UNESCO (2009). Promoting Gender Equality through Textbooks.
[*2] 木村松子(2018)「教材解釈」河野銀子・藤田由美子編著『新版 教育社会とジェンダー』学文社
[*3] デュリュ₌ベラ.M. (1990=1993) 中野知律訳『娘の学校―性差の社会的再生産―』藤原書店