第2回 トラウマのメガネで見てみよう

トラウマになるのは、なぜ?

 こころのケガとして、心身への影響が続くような出来事やその影響をトラウマといいます。トラウマになりうる出来事を体験したことがある人は、決して少なくありません。交通事故や犯罪は連日起きており、人生のなかで大きな災害に見舞われることも避けては通れません。さらに、いじめやハラスメントといった暴力は、程度の差こそあれ、だれもが無縁ではないでしょう。
 これらのすべてが、トラウマとして残るわけではありません。もちろん、どんな出来事もなかったことにはできませんし、よい思い出に変わるわけでもありません。忘れがたく苦痛な出来事ではあるものの、ふだんはあまりそれについて悩まされることがなく、「つらかったな」と過去形で思い出させるようなら、トラウマというより、つらい記憶といえるでしょう。
 一方、トラウマとなる記憶は、日常生活にも支障をきたすほどの症状や生きづらさにつながります。何年も前の出来事であっても、こころのケガが癒えず、今もなお、生々しく痛みが感じられます。記憶が過去形にならないのです。まるで、こころのケガの傷口が開いたまま、今も流血していて、風があたっただけでも飛び上がりそうに痛むようなものです。
 同じような体験をしても、回復する人もいれば、トラウマとして残る場合もあるのはなぜでしょう。一つは、出来事の深刻さです。トラウマの特徴である恐怖や裏切りを強く感じる体験は、トラウマになりやすいといえます。とくに、なすすべがなく、逃げることも声を上げることもできなかったという状況は、人に大きな無力感をもたらします。また、以前の人生がどうであったかも影響します。自分を助けてくれる人たちに囲まれて育った人と、何度も裏切られて傷つけられてきた人では、トラウマを経験した後に希望を持てるかどうかが異なるはずです。それでも、たとえ絶望の淵に追いやられても、誰かひとりでも支えてくれる人がいれば、それは回復に向けた力になります。
 つまり、トラウマというこころのケガは、見えない傷口に気づき、痛みを理解して支えてくれる人がいるかどうかによって、その後の状態が大きく変わってくるのです。そのため、トラウマを理解する人々を増やしていくことがとても大切です。

何が起きているの?

 では、こころのケガの傷口を広げないために、本人や身近な人は何ができるでしょうか。
 まず、見えにくいトラウマに気づく必要があります。たとえば、イライラしやすい、体調に波がある、言われたことを覚えていない、他者の発言を否定的に捉える、すぐに落ち込んだり攻撃的に発言したりするといったような言動があれば、本人の性格やパーソナリティの問題と決めつけるまえに、その人に「何が起きているの?」という関心を向けてみましょう。
 急にイライラしたのは、何か怯えるような状況があったのかもしれません。トラウマを思い出させるようなニュースや話題を耳にすると、急に怖くなって、落ち着きを失う人がいます。実際には危険ではないのに、不穏になるような刺激をリマインダーといいます。同僚の笑い声を聞いて、「バカにされた」と腹が立ったり、「誰もわかってくれない」と孤立感を覚えたりして、感情が不安定になることもあります。
 本人ですら、それがリマインダーによる反応だと気づいていないことが多いので、周囲はなおさら「急にどうしたの?」と不審に思うのも当然です。でも、こうした不安定な行動の背景にトラウマがあるのかもしれないと考えるだけで、「自分が悪い」と自責の念にかられるとか、「あの人はおかしい」と他者非難に終始してしまうような悪循環を断つことができるかもしれません。
 「何が起きているの?」という関心を持ち、トラウマの知識をふまえて自他を見ていく態度は、「トラウマのメガネを使う」と喩えられます。

トラウマのメガネを使う

 トラウマのメガネを使うというアプローチを、トラウマインフォームドケア(Trauma Informed CareTIC)といいます。メガネといっても、医師が専門的なレンズで病理を発見するようなものではなく、基本的な知識というレンズで目の前の状況を少しわかりやすくするものです。
 例えば、わたしたちは「発熱、鼻水、咳、食欲不振、倦怠感」といった症状を見れば、「風邪かな?」と思うでしょう。内科医でもなく、専門的なレンズを持っていなくても、こうした状態が体調不良のサインだという知識があるからです。「呪われているのでは?」と疑ったり、「鼻水を垂らすなんて怠けている」と責めたりもしません。幼い子どもから大人まで、専門家に限らず、健康に関する情報が周知されていて、基本的な対処法を知っていることを公衆衛生といいます。
 TICは、公衆衛生の取り組みのひとつです。風邪と同様に、病理の発見や治療までしなくても、心身の不調のサインだと気づけるだけでよいのです。自分でも「自分が悪い」のではなく「体調が悪い」と気づき、周囲も「調子が悪そうね」と気にかけられるようになることを目指しています。
 トラウマについて、知っておくべきことは何でしょう。まずは、どんな出来事がこころのケガになりうるのかを理解しておくことです。同じような出来事でも、人によって影響は異なるわけですから、「自分は乗り越えたのだから、あなたもがんばれ」とか「まだ気にしているのか」などと他者と比較すべきではありません。また、こころのケガになる体験を恥じる必要もありません。どんな状況であれ、被害者の落ち度ではないからです。
 そして、情緒不安定、体調不良、曖昧な記憶、否定的な考え方、人とうまく関われないといったことが、本人のパーソナリティや特性と決めつけるのではなく、「不調になる背景があるのかもしれない」と、トラウマのメガネで考えていく姿勢が求められます。人がおそろしい目にあったり、傷つけられたりしたら、どんなふうになるかを考えてみましょう。こころのケガについての知識を学ぶことで、トラウマのメガネを手にすることができます。

トラウマによる主な症状

 安全や安心が揺るがされるトラウマを経験すると、人は以下のような反応を起こします。 

 ◆ 過覚醒:いつも不安で緊張して、警戒心が高まり、安心して休めない
 ◆ 再体験:急に過去の記憶が生々しくよみがえる(フラッシュバック)
 ◆ 回避:トラウマを思い出す場所や人を避け、被害について話せない
 ◆ 麻痺:苦痛や空腹などの身体感覚がなくなり、気持ちが感じられない
 ◆ 解離:被害の記憶がなかったり、意識が急に薄れたり、忘れたりする
 ◆ ネガティブな考えや気持ち:否定的な考えや気持ちにとらわれる
 ◆ 再演:傷つけたり傷つけられたりする関係性を繰り返す、危険な行動をする 

 どれも、心身の危険を感じたとき、だれにでも起こる反応です。危険な状態から身を守るための無意識の対処法ともいえます。警戒心を高め、感覚や感情を麻痺させ、悪い結果を予測することは、人間の生存戦略だからです。ですが、危機が過ぎ去ってもこれらの反応が続くと、つねにイライラして、ふいによみがえるおそろしい記憶に悩まされ、うまく話せないばかりか思い出すこともできなくなり、生きていくのが困難になります。自分を守ってくれるはずの防衛反応が生活に支障をきたすようになると「症状」と呼ばれます。
 トラウマによる症状があるかどうか、自分や相手をトラウマのメガネで見てみましょう。トラウマによる影響は、その人が悪いから起こるものではありません。「あなたは悪くない」と自分自身に語りかけ、相手にもはっきり伝えていくことで、トラウマの悪化を防ぐことができます。

 次回は、トラウマからの回復を支える取り組みや関わりかたを紹介します。