第3回 性教育のパラダイム転換を ―その2―

●いまや説明不能となった「らしさ」


男らしい ― 男にふさわしい立派なさまであること。
女らしい ― しとやかでやさしく、いかにも女としてふさわしいこと。

(明解国語辞典1943年(1952年改訂版))

男らしい ― 男が男の気性を備えている。姿や性質が女らしくなく男にふさわしい。
女らしい ― 女が女の気性を備えている。性質・容姿が男らしくなく女に似ている。

(広辞苑1955年(1978年改訂版))

男らしい ― 容姿・性格・態度などがいかにも男性という感じである。
女らしい ― 容姿・性質・態度などがいかにも女性という感じである。

(明鏡国語辞典2010年(2014年第2版)

 これは私の手元にあった3冊の辞書から書き写したものであるが、発行された年代を追って記述が見事に変わってきている。そして、「らしさ」について、もはや説明不能となったことがよく解る。
 にも拘わらず、私たちの意識の中に「らしさ」は深く残っていて、何かの時につい顔を出すことがある。相手をからかい、非難、中傷する言葉とともに。それは年輩の人に多くみられる傾向ではあるが、そうばかりとはいえない。若い人たちが読む雑誌・マンガにも「らしさ」は溢れている。
 男と女はちがう、ちがうという呪縛のような文化攻勢は、人間の歴史を通して深く浸透し、男中心社会が続く中で政治的に補強されてきた。これを打ち破るのは容易なことではない。しかし、ジェンダー平等をめぐるこの根幹問題抜きに、性教育の真の意味の前進はないだろう。(『ジェンダーと脳』(ダフナ・ジョエル他著 紀伊國屋書店刊)は、「真の男脳、女脳は存在しない」として、従来の性差論に対して脳の多様性の視点から深い問いかけをしている。)パラダイム転換の基本課題である。

●子どもへの性暴力。加害者は?

 性暴力被害という言葉に出会うと、多くの人は“ある時、突然路上で”とか、“見知らない人に公園で”、“脅迫されたり暴力をふるわれて”などとイメージするのではないだろうか。もちろん、そういうケースがあるのは事実だが、実際には「加害者の34%が“親や親の恋人・親族、見知った人”」であり、「男性器などの挿入を伴う被害に限定すると59%を占め」ているとのデータ※1がある。また、神奈川県児童相談所の報告(2018年3月)では、調査対象とした全212件における「主たる虐待者」として「実父75件(35%)、養(継)父52件(25%)、兄27件(13%)」を挙げていて※2、この問題のとらえ直しが迫られている。

※1 性被害当事者などからなる一般社団法人「スプリング」による被害者5899人の実態調査から(毎日新聞2020.12.5)
※2 改定新版「ヒューマン・セクソロジー」(子どもの未来社刊)P167~168

 というのは、近親者からの性暴力は、直接的な脅迫や暴力を伴わないことが多く、年齢や立場を利用してのエントラップメント(甘言を使っての罠)型といわれる加害だからである(「きれいだね」「かわいいね」「大好きだよ」「~してあげるから」「好きな人はみんなこうするんだよ」「大人になったらみんなこうするんだからね」「ふたりだけの秘密だよ」「誰にも言わないでね、約束だよ」など)。しかも、被害者である子どもにとって、近親者である大人の行為を暴力加害と認識するのがむずかしい実態がある(前述の「スプリング」の調査によると、直後に被害と認識できた人は47.9%、できなかった人が認識できるまでに要したのは平均7年、さらに34.8%が8年以上かかっていた)。
 あと一つ、子どもへの性暴力で忘れてならないことは、学校や塾などにおける問題である。これに関しては2021年5月、教員によるわいせつ行為(同意の有無にかかわらず)を防止するための新法「わいせつ教員対策法」が出来たことを、この問題の解決に向けての一歩前進と評価したい。そして、これを機に教員だけでなくクラブの先輩・コーチ、塾の講師、学童保育その他の指導員など、日常子どもに対して指導的立場に立つ人たちに「非対等な関係における性行為は暴力」との認識を促す働きかけをそれぞれの場で強めてほしいと思う。
 「親も教師も加害者になることがある」、これは子どもへの性暴力を防ぐためのパラダイム転換を促す重要な言葉というべきであろう。
 その一方で、子どもに対しては、本連載の冒頭で指摘した、性や性器への肯定的理解をすすめながら、自分のからだの、特にプライベートパーツ(口、むね、性器、おしり ― 自分だけが見たり触ったりしていい、特別に大切なところ)への愛着と扱い方の学習をすすめていきたい。

●「一心同体」論は幸せを生むのか?

 高校教師を長く続けていて、卒業生の結婚に際し、しばしば仲人を頼まれたり来賓として招かれたりした。その時、式が済んだ後のパーティの祝辞に必ずといっていい程、カップルの勤務先の上司や親戚筋の方(100%男性だったと思う)から「一心同体」を説く人がいることに気が付いた。「今日から夫婦一心同体となって生きてください」「一心同体の幸せな人生を」などと何度も耳にするうち、段々その嘘くささに辟易して、私は最後の挨拶の時こんな話をするようになった。


 「一心同体という言葉ですが、“時には心を一つにして”ということなら了解できますが、生き方としてということになると、そんなことはあり得ないし、それはかえって不幸を生むように私には思われます。夫婦であろうと親子であろうと、人間は二心異体というか、皆別々の体と心を持った存在です。つまり「他者」です。だからこそコミュニケーションをしっかりとらないと誤解して気持ちがずれたり対立したりするのです。「他者」というと冷たい感じを持つ人がいるかもしれませんが、そうではなく「自分とは違った人間」と考えるとともに、少しでも心地よく生きるためには相手を尊重し、思いやったり自分の気持ちを率直に伝えたりすることが欠かせません。「二心異体」、この言葉を心に留めて安心した関係づくりに努力してください」。

     「他者」とは、日常生活にかかわる「自分以外の人」であって、「他人」とは異なる表現。親子、夫婦もふくまれる。他人とは「赤の―」とか「通りすがりの人」である。
     大学での講義でもそうだが、高校生への講演でも「恋愛や結婚について学びたい」という声は多い。関心はあるのに、まともに学ぶ機会が殆どないテーマだからであろう。恋愛中や、特に結婚する前に、「他者」との関係づくりの難しさを知り、難しいゆえに取り組み甲斐があるということに気づくことが大切だと思っている。

    ●「性の快楽性」について。快楽を「ポルノ」から取り戻す重大課題

     性教育のパラダイム転換について考える時、最も「核」になる課題の一つが、この「快楽性」ではないかと思う。
     わが国の性教育は、もとを辿れば「純潔教育」に行き着くように、性行為を「汚れ」とする道徳教育に端を発している。特に女子に対して生殖以外の性は強く否定されてきた歴史がある。こうした考え方は、欧米など先進諸国では女性への人権抑圧に対する諸活動を通じてジェンダー平等の考え方や政策が推進される中で、根本的に克服されつつ現在に至っている。しかし、わが国では男尊女卑の考え方がいまなお根強く存在し、性の快楽性(とりわけ女性については)が正面から取り上げられることはほとんどないまま今日に至っている。
     ではなぜ、快楽がまともに取り上げられてこなかったのか。その根本の原因は、「性の快楽」をジェンダー平等をすすめる「関係のあり方」として追究するのでなく、ポルノの世界に閉じ込めて男性中心の享楽物としてきた歴史、社会にある(ポルノの性を全面否定するつもりはないが、それを「快楽の性」として受け入れるのは適当ではない。むしろそれは、ファンタジーとして、「支配の性」として、見抜く力を育てることが重要である)。そして、性の快楽=性交、とすることによって教育の課題からは縁なきものとなってしまった。
     性の快楽性は触れ合うことで得られる安心感、一体感を分かち合うことから生まれ、生涯にわたって生きる意欲や心身の健康の基礎となるものである。
     思春期を境に性欲との葛藤が始まり、相手との関係づくりをめぐって性の学びの課題に直面するが、その中には性的対象や生殖の可否、性行動の選択、欲求の解消の仕方なども含まれるだろう。特に性的対象になる人との関係づくりは、きわめて重要な学習課題といえよう。快楽性については、自分と相手の身体のしくみ、はたらきや性への深い理解を伴うべき、すぐれて知的なテーマでもある(快楽の性といっても一様ではなく、ひとそれぞれ多様である。また、快楽を求めない人もいる。「知的なテーマ」とは、快楽そのものを学びの対象として考えるということである)。
     ポルノに乗っ取られてしまっている「快楽」を人間の真の幸せのためのものに取り戻す取り組みがさし迫って求められていくのではないだろうか。折りしも、2019年メキシコシティで開かれた「性の健康世界学会(World Association for Sexual Health)」で、性の快楽を人権とする「セクシュアル・プレジャー宣言」が採択された。人間の歴史の中で初めてのことである。
     まさしく、パラダイム転換の核心たるテーマといえよう。