第1回 性教育の前に横たわる、性に対する否定感

 性教育をすすめることに対し、これを抑制する言葉に“寝た子を起こすな”という耳慣れた表現がある。元々は “Let sleeping dogs lie”というもので“寝ている犬を起こすと面倒なことになるので余計なことをやめて寝かせておけ”ということらしいが、わが国では性教育関連以外で使われることはないように思う。つまり“子どもが性について知ると良くないことをする”という前提で使われてきており、この言葉には性に対する否定感と子どもへの不信感が横たわっていると考えてよいだろう。
 こうした考え方からは積極的で明るい幸せへの学びは生まれにくいし、わが国では育てられてこなかった。

●性や性器をどのように理解するか

 今でこそほとんど見かけなくなったが、しばらく前まで多くの学校の女子トイレには「汚物入れ」が置いてあった。「使い終わった生理用品入れ」で、その通り書けばいいものをわざわざ「汚物」と表示していたのである。また、多くの家庭では月経中の女子は風呂に入らせないとか、入るとしても皆が入った後の「終い湯」に、としつけた。月経を不浄なものとしていたのである。長く続くこうした慣習を通して、性や性器に対する不浄観・不潔観が醸成されていったのである。そして、そのことを通して女子の性や性器への偏見や差別意識が育てられたといえよう。女子ほどに鋭くつきつけられなかったにせよ、男子の性についても、例えば精液を膿のように言ったり、「精液で汚れたパンツ」などと当たり前のように表現してきたのではないだろうか。
 こうして子どもたちは、自らの成長に伴う性的な現象をポジティブに受け止められないまま育てられてきたと言ってよいだろう。
 本来ならば、ここから月経や射精のしくみやはたらきを科学的に学び、性器官を柔らかく傷つきやすいところとして大切にやさしく扱うこと、したがってきれいな下着で保護する(いやらしいところだから下着でかくすのでなく)よう促すことが求められるはずである。性の学びのスタートになるこの課題の取りあげ方を根本的に見直す必要がある。

●人工妊娠中絶をどう扱うのか

 人工妊娠中絶手術は、わが国では母体保護法によって合法的に認められている手術である。ところがこれが性教育のテーマとして取りあげられる時、生徒たちの性行動を抑制することを目的に、まるでそれが犯罪であるかのように、また手術の経験がその後の妊娠を阻害したり、精神的な後遺症につながる可能性を強調したりする傾向が依然としてあることを、大学生の高校時代の学習経験として耳にすることがしばしばあった。私はこれを“人工中絶の罪と罰の教育”などと思ったが、なぜこうしたことが起こるのか、その理由として、教育する立場の人間が陥りやすい「パターナリズム」がある。パターナリズムとは父親らしい温情主義、男性が占めてきた優位な立場の意向に、力の弱い、子どもや女性を従わせる父権主義的な考え方のことである。家父長主義ともいってよい。
 子どもたちが不幸な目にあわないように脅しつけてでも従わせる=セックスに近づかないようにする、こうした傾向は“中絶”を筆頭に性教育には散見される「道徳主義教育」の顔である。
 中絶は悲しい出来事であり、誰も経験しないですめばそれに越したことはない。にも拘わらず人間がすることには失敗があり、予期しない妊娠に見舞われる可能性はセックスをすれば誰にでもあり得ることなのである。そのため、長い歴史の中で女性たちを中心にした運動によってリプロダクティブヘルス&ライツ(性と生殖に関する健康と権利)が国際的に認められてきたのである。出産の間隔を決めるのは女性自身の権利であるとして。
 中絶の教育は、こうした歴史を振り返りつつ予期しない妊娠をしないための教育を、とりわけ男性への教育と協力の不可欠性を強調しつつ行われなければならない。また中絶手術も女性の苦痛を減らし、より安全に行うよう進歩していることにも触れることが重要である。わが国で行われている、さまざまな器具によって子宮内の内容物を掻き出す方法は国際的には“時代おくれ”とされていて、内容物を一気に吸い出す方法、さらに薬物(経口中絶薬)による対応が次第に一般化しつつあることも知らせたい(2017年現在、68ヶ国・地域に及んでいる)。
 このように、人工中絶の学びを歴史的背景とともに男女両者の関係の質を問う問題として、幸せに生きるという方向性の模索の中で追求していくことが求められている。

●ピル(経口避妊薬)の学習の意味とは

 中絶という悲しい体験をしないためには確実な避妊に取り組むことが不可欠なのは自明である。その避妊について、自ら妊娠することのない男性のコンドーム装着に圧倒的に頼っている現実(国際的に際立っている)をどう説明すべきだろうか。というよりも、説明するまでもなくそれが当たり前と思って(思わされて)きたのである。そのことはピル認可が国連加盟国で最も遅い国であり、認可された今もその使用率がきわめて低い(約2%)ことに顕著に表れている。 ※世界の動向としては女性が使える方法(ピルやIUD、避妊注射など)が約8割を占めているが、わが国は9割以上、男性が使うコンドーム法が圧倒的に多い。
 なぜそうなのか。これを考える時 ①わが国では医師の処方によって手に入れることになっていて、薬局で自由に買い求められないばかりか価格がとても高い ②長い未承認の期間を通じてピルの副作用が強調されたために警戒心が浸透し、いまも根強く残っている ③積極的にすすめる動きが学校教育も含めて弱いままである ― ピルは28日間継続して飲み続けるという持続的な努力が必要で、それを実行するには性に関する教育・理解が必要である。
 つまり、幸せに生きるための学びとして積極的に取り組んでいないと言わざるを得ない。
 その結果、性行動において男性が「主」、女性は「従」という関係は依然としてそのままであり、それが避妊法の選択にそのまま反映しているのではないか。

●マスターベーションをセルフプレジャーとして

 マスターベーションの訳語には「手淫」「自涜」が当てられている。最近では「自慰」も使われるようになり、少し気持ちが柔らいだ。しかしまだ何かうしろめたい言葉の印象がつきまとっている。私は20年ほど前から「セルフプレジャー(自体愛、自己快楽)」と言い換えているが、少しずつ賛同する人が増えていて嬉しい。
 男子に対してこの性行為を否定する人はまずいないが、それでも「仕方がない」とか「必要悪」などと申し訳なさそうに認めている。しかし、女子に対しては「あり得ない」とか「考えたことがない」「おかしい」などと途端に雲行きが変わるのはなぜだろうか。
 このことは経験率を示すデータにも表われている。例えば第8回「若者の性」白書(2017)によれば、大学生男子の自慰経験率は92.2%(性交は47%)に対し、女子は36.8%(性交は36.7%)、高校生男子の自慰78.4%(性交は13.6%)、女子は自慰19.2%(性交は19.3%)となっていて自慰経験の性差は著しい。もちろん自慰をするしないは本人の意思決定に委ねられるものであるが、この数値に表される性差は、ピル利用の問題と重なって「女子の性の主体性、快楽性」に対し、歴史的に長く続いた偏見、抑圧(女性自身の内面にも根づいた)結果ではないかと思う。
 セルフプレジャーは性的欲求の自己解放、自己管理の課題と結びつけて、性別を問わず今後積極的に取りあげ取り組むべきテーマだと考える。