第2回 性教育のパラダイム転換を ―その1―

 パラダイムとは「ある時代、ある分野における支配的な認識(ものの見方、考え方)の枠組」のことである。今回は、性教育において「当たり前」とされてきたことを改めて見直してみたい。

●性別意識や性愛の対象は決まりきったもの?

 私が性教育をはじめた50年ほど前、性別は男か女のどちらかしかないと当たり前のように思われていたし、まともな性行為の対象は「異性」に決まっているとされていた。そうではない人がいても一時的な現象でやがて「もとに戻る」ものとされていて、戻らない人がいたらその人は病気か、もともと変人であるように考えられていた。
 50年前どころか、つい10年前、いや今現在も「常識」のようにそう考えている人も少なからずいるし、法的にいえば性的多様性を受け入れる何の変化もない。
 現に学習指導要領の保健体育(中学校)では、思春期には「身体の機能の成熟とともに性衝動が生じたり異性への関心が高まったりすることなど」(傍点筆者)とあり、同性への性関心などは無視されたままである。
 しかし科学は、性別というものは男と女に明確に二分されるものではなく、ひとりひとり違うというほど多様に存在することを明らかにした。また誰が誰を愛するかは二人の「人権」の問題(愛する対象を持たないア・セクシュアルの人もいる)であり、宗教その他の理由でその愛を妨げるのは人権侵害と考えられるようになった。そして婚姻についてもすでに28の国・地域が同性婚を合法化するに至っている(2019年現在)。
 このように長い人類史の中で作られてきた性別二元論と異性愛絶対論は大きく揺らいできている。まさしく性と性教育の「パラダイム転換」の指標として注目しなければならない。

●性欲=本能論を克服することから性教育は始まる

 「本能」とは“動物に生まれつき備わっている能力や習性”と言われていて、食欲、睡眠欲、性欲が挙げられている。なぜ性欲が本能かというと、それがないと種族維持ができないからとされてきた。しかし今日、人間誰しも種族維持のために性を営むものだと思ってはいない。元々性欲を持たない人も、同性との性愛で生きる人も、妊娠を希望しない人も、希望しても叶わない人もいて、それこそ決まりきった生殖本能などと無縁な生き方をしているのである。にもかかわらず、性欲=本能という考え方は人々の意識の中に隠然と生きていると思う。
 そうした意味から、私は、性についていえば人間の意思や感情を超える印象の強い「性欲」という表現ではなく「性的欲求」と言い換えて、その内容をより豊かに幅広くとらえ直したいと考えてきた。
 身体的精神的に快楽を得たいし分かち合いたい願望、自らの性的アイデンティティを肯定し「対」にとらわれず自己表現したい願望、予期しない妊娠を避け抑圧や暴力のない関係性のもとでともに生きたいという願い等々、そうした長い人間の歩みの中で、性を文化として、学習によって身につける能力として、現在および将来へ「教育」の必要性がますます求められているのではないだろうか。
 性的無知、無理解は無謀な性行動をうむ。性的理解が深まるほど慎重な性行動をうむ。「慎重な」とは自己中心でなく相手のことをよく考えて、ということでもある。
 性本能論から性文化論へ―パラダイム転換の重要な指標といえよう。

●「母性(愛)本能」という名の縛り、息苦しさ

 この言葉、もう死語かと思ったらとんでもない。時々不意に鎌首をもたげて襲ってくるのである。女性をねらって。
 女性の生殖機能としての妊娠、出産、これは掛け替えのない大切な体の営みであり、性別にかかわりなく正しく学ぶ価値があるテーマである。特に女子は自らそれを担う立場になる可能性があるわけで、より主体的に詳しく学ぶことが求められよう。問題はそうした機能を持つ女性に対し、産後の育児を含めて「生殖」に縛りつけ、固定的な性別役割へリードする考え方、施策である。しかもそれを母性愛という言葉で包みこみ、身動きさせなくしている(してきた)のではないだろうか。結婚したカップルにとって出産後の育児に関わって女性の人生だけがすっかり変わってしまうことから、「関係」のきしみが深刻になることがしばしばある。確かに妊娠・出産は女性だけにしか出来ないことであるが、その他のことは男性にも出来るし社会の力でフォローできる。またそのことで男性の人生も「労働」ばかりでなく全きもの(まったきもの)になるのである。
 全きものとはなにか。働くこと、家事すること、子どもを育てること、愛すること、遊ぶこと…。そうしたことをすべてわがこととして受け止め、受け入れ、表現する暮らし、生き方のことである。
 母性の名による固定的な役割分担意識がもたらす不幸、加えて関係の不幸からのパラダイム転換を追求すべき時代を迎えているといえよう。

●出産の20%以上は帝王切開なのに

 性教育で取り上げられるテーマで「出産」は昔からの定番である。いのちの素晴らしさ、出産時の母親の頑張り、元気な産ぶ声、家族みんなの笑顔等々、感動的な物語は授業参観でもしばしば取り上げられてきた。その時の出産はすべて経腟分娩である(普通分娩といわれる)。ところが実際には初産年齢が高齢化してきたり、妊娠の体力への懸念、出産時のトラブル回避等の理由で帝王切開(異常分娩といわれる)が増え続けているという。ということは今の生徒の中にすでに、またその生徒たちの今後の人生の中で、帝王切開による出産は例外どころか一つの選択肢となる可能性が高い。
 ところが現実には、帝王切開に至ったのは「我慢が足りなかったから」とか「わが子への愛情不足(ここにも母性(愛)の歪んだ影響が残っている)」とか、生まれた子どもの何らかの弱点をみつけて出産方法のせいにするなど非難中傷したり、それをまともに受けとめて心を病んだりすることが後を絶たないという。
 かつて私も性の講義の中で「出産」を大切な教材として取り上げてきた。その時には、胎児のもつ、自ら生まれ出るためのしくみとか、それを支える母体の働き、それらの共同作業としての「出産の科学」を語ってきた。極力出産をめぐる感動物語にならないよう配慮してきた。いろいろな夫婦(ばかりでなく)があり、家族があり、事情があるのだからと。しかしまだその頃は経腟分娩しなかった女性の苦汁には十分思い至らなかったと反省する。
 「普通分娩」は「経腟分娩」に、「異常分娩」は「切開分娩」に表現を変え、学校教育においても現実に即して冷静に取り上げることが必要である。これもまた、パラダイム転換と言ってよいだろう。

※2017年の厚労省データでは20.4%とされている。

●性感染症について思い込みを捨てて正面から見つめ、学び、対応する力を持つ

 性感染症(STI)もいろいろある病気の一つである。しかしこれが性行為によって感染するため、感染を恥じる、卑しむ心に支配されて、自分が感染したかどうか確かめることをしようとしない。その結果、検査や治療が遅れて、病状を深刻化させたり、感染者を増やしてしまうという悪循環に陥ることになる。
 性教育は、この悪循環を断ち切らなければならない。そのために何より大切なのは、感染することに「道徳」をからませないことである。「真面目な人はSTIにかからない」「感染したのは性道徳の低い人である」というような。感染と道徳は関係がない。感染したのはSTIの理解が足りなかった人、それ故に、予防に対し不注意だったからである。これは他の疾病についても同じことである。
 また万一感染しても絶望と死が待っているわけではない。早く気づけばひとに広げることは防げるし、治療によって自らの人生も全うできる。こうして、二人で検査を受け予防することで安心して性(セックス)に臨めるよう励ますのが、望ましいことではないか。
 これもまた性教育のパラダイム転換の一つと考えたい。

※Sexually(性)Transmitted(感染)Infection(症状) の頭文字。