第1回 男女共同参画社会とは

 性別ということについて、これまでの日本社会はどういう社会だったろうか、そこにどのような問題があると認識されるようになったのか、そして、そうした問題を乗り越えてどのような社会をめざすのか―第1回は、まずこれらを確認してみたい。

1.これまでの社会と性別

性別ということについて、これまでの日本社会はどういう社会だったかを振返ってみると、次のようなことが言えそうである。
1.性別は、『男性』『女性』という2群に分けてとらえられてきた(人は『女性』か『男性』のどちらかである)。
2.『女性』『男性』2群に分けられた性別は、社会的な通念、慣習・慣行、さらには社会の秩序を形づくってきた――生物的な違いと関連づけて、社会的にも人を2つの性別に分け、2群の人々を“女はこう・男はこう”と、違う社会的存在と見、扱う慣習や意識、さらにはそれらを組み込んだ社会秩序があった。たとえば、政治・経済などの社会活動は主に男性、家事労働は主に女性というように、行動を性別によって分ける慣習があった(この慣習を、性別分業という)。また、こまやかな気配り・優しさ-女性、強さ-男性、というように人格としての資質や態度と性別を対応させる考え方(“らしさ”)もあった。こうした、人を性別で2分し違うものと見・扱う慣習や通念は、強固な慣習上の制度ともいうべきものとして社会に根づいており、どの性別に属する人にとっても、人としてのありかたと人生を制約する要因となってしまってきた。たとえば女性であると、就労継続、熟練・キャリア形成を前提とする基幹的な労働市場や社会的意思決定に参入し難い、男性であると、生活者・地域住民・市民として生きていき難い、男性にも女性にもアイデンティをもち難い人はあるまじき存在として偏見や排除の対象となりがちだったというように。
3.『男性』と『女性』の2群の間には対等でない力関係があった――3のような性別ゆえの制約・不利益は、歴史的現実として、男性でない人たちにおいて大きかった。慣習上無償労働・低償労働を割り当てられてきたことによる経済的不利、社会的意思決定から排除されがちであったことによる政治的不利、低い価値づけや偏見の対象になるなどの社会的不利、性的対象物扱い・暴力の対象となるなど人権を軽視されがちだった等々である。
このうち2の性別分業や“らしさ”の規範すべての根底にあるのが、「『女性』と『男性』は、生物としてのしくみ・働きだけでなく人格や社会的機能の面でも本質的に異なる」といった性別観ではなかったか。

2.何が問題とされるようになったのか

1.で振返ってみたようなこれまでの日本社会の性別状況に対して、とくに国際女性年(1975)以降、次のような認識が形成されてきた。そしてこれらは、国際的には国連『女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約』(1979。以下、女性差別撤廃条約)、国内では『男女共同参画社会基本法』(1999)として結実した。
(1)法律上はもちろん、社会的な慣習や通念においても、人生のありかたや人の社会的ありかたが、『女性』『男性』と二項化された生物学的な性別によって事実上方向づけられたり制約されたりするのは不合理である。人生や社会的な立場が人種によって方向づけられたり制約されたりするのが不合理であるように。人生のありかたや人の社会的ありかたは、性別、人種など生物学的な違いの影響を受けることなく個性・能力や努力や情況によってのみ形づくられるはずのものである。
(2)1.女性が妊娠・分娩・授乳のためのしくみをもっているということによる別扱い。
2.性別に関する実質的な平等の実現を促進するために、暫定的に採られる、女性に対する優遇措置(「ポジティブ・アクション」という。過去の分け隔ての結果生じた不利益・ハンディを埋め合わせ、平等の実現を促進するために一時的に特別扱いを行う政策手段)の2つのみを例外とし(『女性差別撤廃条約』第4条)、これら以外の、法制度上はもちろん慣習上の性別によるあらゆる分け隔て、別扱いは認められ得ない。

3.どのような社会をめざすのか

2.のような問題認識から、国際的にも日本においても1.のようなこれまでの慣習・通念を乗り越えて、性別について公正な社会―どのような性別の人も個人として等しく尊重され、法律上も実質的にも等しい機会が得られる社会―がめざされるようになった。それはもちろん社会は公正であるべきで、人権が確保されるべき(性別が原因で人が不利益を受けるようなことはあってはならない)だからだが、日本の場合、こうしたそもそもの理由に加えて、少子高齢化や経済の高度の成熟によって、男だから・女だからなどと不合理で非効率なことを言っていられないという情況の後押しもあるようだ。ここでは説明のために“性別について公正な社会”と表現したが、『男女共同参画社会基本法』(1999)では、これにあたる社会を“男女共同参画社会の形成”という語で定義している。
第2条 1 男女共同参画社会の形成  男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会を形成することをいう。
性別について公正な社会(男女共同参画社会)の姿をもう少し具体化してみるなら、“性別分業”をしくみとし、“女らしさ・男らしさ”を規範としていた、つまりは“性別で秩序立てられていた”これまでの社会から、“能力・個性と努力と情況に応じた分業”をしくみとし、“人間らしさとその人らしさ”を規範とする、つまりは“能力・個性と努力と情況に対応した秩序”の社会へ、ということになる。性別について公正な社会(男女共同参画社会)―“能力・個性と努力と情況に応じた分業”をしくみとし、“人間らしさとその人らしさ”を規範とする、“能力・個性と努力と情況に対応した秩序”の社会は、性別をないがしろにしたり、ましてや性別をなくそうとする社会などではない。そのような社会で性別は“その人らしさ”の一構成要素として、その人なりのかたちで(自分が女や男であることとどのように付き合っていくのか、それをどのように表現していくのか、異性とどのような関係を築くのか・・・)大事にされていくだろう。
では、性別について公正な社会(男女共同参画社会)をつくるには? 次回はそれを考えることにしたい。