第3回 家族と男女共同参画について その3

1.フィフティ・フィフティの内実

 「生活の質を落としてまで結婚したくない」というのは男性も同じです。今まで一人で使っていた収入で二人分の生活をまかなうとなったら、生活の質が落ちるのは当然です。そのせいもあるのかもしれませんが、「家計は夫の収入だけでまかなうべきだ」とする人は男性でも女性でも少数です。女性では7割、男性では6割の人が「そう考えない」と答えています。しかし、「妻の仕事の有無に関わらず夫は育児に関わるべきだ」を積極的に肯定する女性はほぼ7割なのに対し、男性は半数もいません。女性は、妊娠、出産で休職、退職によるキャリアの中断などのマイナスを負いますし、収入の減少、乳幼児期の子育て、子どもの育ちへの責任なども、ほとんどが妻であり母親である女性に負わされます。これらのマイナスをパートナーである男性が埋め、母親にかかる負担の軽減を図るのはとても大変です。順調な妊娠、出産、大らかに支えてくれる親世代や先輩女性たち、同年齢の子どもがいる気のあった友人などのいずれが欠けても、母親の負荷が耐え難いものになるのが現在の子育て状況だからです。
 また家事をしているのは「妻のみ」と答える割合は、男性では2割もいないのに対し女性では半数の人が「妻のみ」と答えています。夫はしているつもり、妻は夫が家事をしているとはみていないという夫婦間の認識のギャップがうかがえます。また家事のほとんどを妻が担っている家庭が8割を超える中で、3割の男性が家事への負担感を感じていることは先述した通りです。
 これらを見ると、「家計は夫の収入だけでまかなうべきだ」と回答する人が多いからといって、夫婦の間で子育てや家事を含めたフィフティ・フィフティが成り立つとはなかなか思えません。

2.生活保障と世話の交換

 いずれにせよ、結婚により生活保障と世話とを交換するというルールは、結婚によらなくても生活保障を稼げる女性と、結婚によらなくても自分の世話が何とかなる男性から捨て去られようとしています。しかし「女は誰か世話をする人を見つけない限り生活保障が得られない」というルールから自由になれない女性たちがいます。その一つが若くして出産した女性です。若くして出産するということは、キャリアどころか場合によっては教育も中断されます。こうした女性が離婚をして、子どもを抱えながら収入を得ることが難しいのは想像するまでもないと思います。頼りになる実家でもあればいいのですが、それもないとなると、彼女たちはどこに活路を見出せばいいのでしょうか。「誰か世話をする人を見つけない限り生活保障が得られない」のですから、世話する人を手離さないようにするのも、また離婚をした場合には少しでも早く世話をする人を見つけようとするのも当然です。結婚し離婚をし、また結婚をし、を繰り返す若い女性がいますが、彼女たちの行動は「誰か世話をする人を見つけない限り(女性は)生活保障を得られない」という性別役割分業への適応です。
 また「誰か世話をする人を見つけない限り生活保障が得られない」というルールは、世話をする人を見つけることを前提として暮らしてきて、結果としてそういう人を見つけられなかった女性にも、離婚等により世話する人を失った女性にも過酷な人生を強いることになります。またこの場合の世話をする人とは、その対価である生活保障を提供することのできる人のことです。単身で子どもの世話をしても、生活保障が得られないことは、先に見てきたとおりです。

3.自分の方が損をしている

 男性にとってのルールが「生活保障を提供できない限り世話をしてもらえない」だとすると、男性は自分の身の回りの世話をしてもらうためにも、あるいは子どもを育ててもらうためにも、必死になって家族の生活保障を稼ぎ出さなければなりません。それが過労死や家庭での孤立、定年退職後の無為につながっていることは今更言うまでもないと思います。またそういうルールがあるために、男性は自分自身の世話をする訓練すら受けないまま大人になっていきます。男性介護者による、無理心中等の悲劇の一因はここにもあります。

 給与の格差、昇進の格差など、性別による格差がある労働状況は、男性にとっては一種の既得権益だとも言えますが、それにもかかわらず、「家計は夫の収入だけでまかなうべきだ」と考えている男性は3割程度しかいません。だとすると、自分の収入だけで家計をまかなっている男性が、不当な感覚を持つことは容易に想像できます。

 また家庭にしか居場所がなく、孤独に耐えながらケア労働を担ってきた女性たちも、自分は不当に扱われていると感じています。面接室で聞くこうした女性の心のうちには深い怒りがありますし、彼女たちの話から見えてくる夫たちも自分の境遇に満足していないことが感じ取られます。幸運な例外はあるにしても、自分の方が損をしている、不当な扱いを受けていると双方があるいはどちらか片方が思っているのが今の夫婦の姿だと言えます。

4.結婚生活と精神的満足

 これまで「生活保障」と「世話」の交換についてだけを見てきましたが、結婚によって得られると期待されているのはそれだけではありません。これらはむしろ結婚生活の前提であり、結婚によって得られるとされる最大のものは幸福です。結婚式の演出や式場や新婚旅行など結婚にまつわる消費の宣伝を見るまでもなく、結婚と幸せはセットとして人びとにイメージされています。また詳細は省きますが、独身男女では、若い世代ほど、結婚への精神的満足への期待が高いことが読み取れます。これを若いから結婚に対して幻想を持っているとすることもできますが、この幻想は独身者だけに限りません。前項で書いた妻と夫の不満の最大のものもこの幻想によりもたらされています。妻は一定の生活保障を得てはいるものの、自分が払っているケア労働の内実に見合った精神的な報酬を得ていないと感じていますし、夫も自分が提供している生活保障に見合うだけの世話とそれに伴う精神的な報酬を得ていないと感じているのです。

5.最後に

 「生活保障」と「世話」の交換のルールに従っていれば、それなりの精神的満足を得られた時代は終わろうとしています。相手への期待が大きければ大きいほど、それを与えてくれない相手への恨みも積もっていきます。双方が奪われる一方だと感じていながら、その交換に依拠しなければ生活できない状況が、今家族にさまざまな問題をもたらしています。特に親の不幸が子どもに与える心理的な影響には看過できないものがあります。
 時間はかかるかもしれませんが、夫婦の双方がそれなりの精神的満足を自分自身で得るための新しいルールが必要です。そのためには双方に、成熟したコミュニケーション能力が必要ですし、夫と妻の双方がそれなりの精神的満足を自分自身で得ることができるような社会の仕組みが必要です。それは同時に子どもの人生を搾取しないための新しい家族のルールの創出でもあります。新しいルールの創出のためには「生活保障」と「世話」の交換のルールの見直しと、相手への、そして家族への過大な期待の見直しが不可欠です。それぞれの一歩は、コミュニケーション能力の獲得と合わせて、自分の精神的満足を自分自身で得るためにはどうしたらいいかを考えるところから始められると思います。