第3回 「男性の育児」の正体は何か?

 当事者たちの問題として男性の育児参加を考えると、「自分たちで頑張ってください」で終わってしまう。ではなぜ、今日の課題として議論をしなければならないのか。これを考えることで「男性の育児」の正体が少し見えてくるかもしれない。

1. 育児を「家族戦略」の中で考えてみては?

 拙稿を読んでくださっているのはどのような人たちだろうか?
 第1回目ではタスクとしての「育児」を考えた時、会社などの「仕事」とはそもそも質が異なることを述べた。第2回目では社会の中や政治を通して育児環境の向上は挑戦していくべきだが、そもそも個人が自由に使える「可処分時間」を増やすことでかなり育児環境がよくなるのではないかと私見を述べた。

 ところで、もし、これを読んでくださっているあなたが、夫の育児参加を希望している女性なら、タスクとしての育児がどういうものなのか説明するヒントになるであろう。

 もしあなたが男性で、育児に関わりたい、関わるべきだと考えつつも、実行方法に困っているのであれば、「家族戦略」を立ててみてはいかがだろうか。第1回目でも述べたが、わが家は「男性の育児」のためにドイツに移ったというよりも、「日常的に家族の時間を持ちやすくする」というのが「家族戦略」の軸だった。育児は大きな課題だが中心ではない。自分の仕事、相方の希望、趣味、育児、教育などの要素に優先順位つけ、相乗効果がある組み合わせを考えていく方針だった。

 もっとも、実際はトライ・アンド・エラーを繰り返しだったが、それでも子どもは大きくなる。私の場合も当初は7割が育児、3割がジャーナリストという感じだったが、子どもの成長に伴い緩やかに逆転した。そして、当初の軸である「家族の時間」は今もそれなりに確保している。

 ここで「ドイツの事例」を少し紹介すると、ある男性は娘が小さかったころ、労働時間と給料をカットしたいという交渉を会社と直接行った。これで彼は家族と過ごす時間を増やした。また、とある従業員数10人余りの小規模の会社では、家族の状況に合わせて社員同士が調整しあっていると耳にしたことがある。要は自分たちの状況のなかで交渉・調整をし、制度をうまく使って希望の育児スタイルに近づけていけばよいのだ。

2. 個人の才覚に帰してはいけない

 こういってしまうと身も蓋もないのだが、育児を個人の問題に帰すると、当事者の才覚次第だ。しかし、個人の問題だけで済ましてしまってはいけない。だから法律や企業の制度など、政治や社会で最良の枠組みを考え続けなければならない。 

 こういう観点でドイツから日本を見た時、気になるのがセクハラ、パワハラ、アカハラ、マタハラなどの「なんとかハラスメント(いやがらせ、困らせること)」の種類の多さだ。ある日本語のサイトでは30種類あるとしているから驚きだ。もともと外来語だが、昨今の日本の報道を見ていると「次はどんなハラスメントが来るのか?」という雰囲気すら感じるのだが、どうだろうか。ドイツでも言葉としてはあるが、日本ほど聞かない印象がある。

 では昨今、日本でなぜこんなにハラスメントが増えたのだろうか?

 それは広く社会で了解されているはずの人権の概念がしっかりしていないことが大きな理由ではないか。だから、個別の人権侵害を「発見」しては、命名していくという状態にあるように思えるのだ。

3. もう100年以上たっている・・・

 もっとも人権の概念がしっかりしていない、というのは仕方がないことかもしれない。何しろ外来の概念だ。例えるならば、外国人が日本語のレシピを入手・翻訳し、自国で作った寿司のようなものだ。あなたがもし厳しい評者なら、米の細かい種類、ネタの鮮度に寿司職人の魂、はては客の食べ方が云々と、レシピには載っていない寿司という食文化を成り立たせている要素を持ちだして、評価するだろう。そしてこう言う。「それなりに旨いけど、寿司の真髄は理解していないね」と。

 同様に、「本場」の西洋で、人権を成り立たせている歴史的体験、概念の発生経緯、そしてこの概念が今日の社会の事象とどのような連関をつくっているのか。こういうことがわれわれには見えにくい。

 人権の概念に重要なのがフランス革命の時の秀逸なコンセプトだ。「自由・平等・博愛」というやつだが、私の理解ではこうだ。自由はその言葉通り、個人の自由意思や自己決定を認めるものだ。しかし、時には自分の「自由」と他者の「自由」がぶつかる。そのコントロールのために「平等」という概念が加わる。そして博愛、これは「連帯」と訳したほうがよいのだが、これは赤の他人同士のつながりや協力関係を表す概念だ。この連帯が加わることで、個人の尊厳を基本にした自由で平等な民主制がパワフルに機能する。これが個人の問題を個人で終わらせない理由と考えるとわかりやすい。

 ドイツに住むと、こういった考え方が通奏低音のよう流れ、確認が繰り返されているのに気がつく。日本にも古くから人間集団を秩序立てるための考え方や方法はある。しかし人間の尊厳をベースにした西洋の概念をもとに国を作って、もう100年以上になる。日本における人権の概念は革命でできたわけでもなく、輸入モノだが、それにしても、いやそれだからこそ、常に理解に努め、確認していくべきだろう。

 ひるがえって、「ハラスメント」も100種類ぐらいに増えてきたら、「個別のハラスメントの防止も大切だが、人権という概念から基本的にアプローチすべきだ」という見解が強くなるかもしれない。

4. 「男性の育児」という新しい自由

 話が少々大きくなりすぎたが、ここで改めて考えたいのが、男性の育児はなぜ、今日的なテーマなのかということだ。おそらく複数の背景がある。「男の仕事はこれ」「女の仕事はあれ」といった社会的・文化的性別に対する異議、それに家族像の変化。さらには仕事と個人生活の割合に対する議論など、そんな積み重ねを経て登場したのが「男性の育児」というテーマではないか。そしてこれは新しいアイデアであり、新しい「自由」だ。これを既存の社会にどう組み込むかという議論なのだ。

 繰り返すが、個人の問題に帰すれば、できる人はどんどん進めていけばよい。しかしこれでは何らかの事情でできない人は「自己責任」として放っておくことになる。大切なことは、この自由を選びやすくし、この自由があるということがまた、社会の質を高めることにつながるように考えることなのだ。先述の従業員同士が融通をきかせている10数名の会社などはわかりやすい例で、育児参加という自由を、連帯によって実現し、機会の平等も図っているかたちだ。おそらく人間集団としても、かなり良い状態の会社なのだと思う。

 だから、これを読んでいるあなたが、もし政治家であれば、育児環境という観点から住みやすく働きやすい国・地域づくりのヒントになればと思う。経営者であれば育児環境の整備は労務の問題として大きいし、会社の利益にもつながる手立てはいろいろできるはずだ。それにしても、21世紀に入ってとにかく議論は進んでいるし、続けるべきだ。

 最後に個人的な話をすると、育児のおかげもあってか、思春期まっただ中の子どもたちとも親子関係は今のところ良好だ。また少し前に、育児にお疲れ気味の友人(女性)の愚痴を聞く機会があったが、私は自分の体験とともにこう話した。「確かに大変だったが、今思うとダイヤモンドのような時間だったよ」。それを聞いた彼女の顔はふっとゆるんだ。今の苦労をちょっと長い時間軸の中で見ることができたようだ。