第1回 仕事と育児が相容れない理由

 育児は職場の仕事とはまったく性質が異なる。これを理解すると、男性が育児参加するにはどうすればよいか、考える手助けになるかもしれない。筆者の体験を交えて考えてみたい。

1.家庭内人事異動

 自己紹介からはじめよう。
 私はドイツのエアランゲン市という町に住む日本人ジャーナリストだ。妻はこの町出身のドイツ人、そして一男ニ女の子どもがいる。2000年代はじめに日本からやってきたが、妻のほうからいえば、家族を連れて故郷へ戻ってきたという感じだろう。日本とドイツ、どちらで子どもを育てるべきか、という議論もずいぶんしたが、「1日のうちで家族の時間をきちんと持つ」。これがドイツへ移った理由のベースの部分だ。
 「家族運営」で必ず考えなければならないのが、「生活費の調達」だ。1990年代終わり、日本で結婚した当初は共働きであったが、子どもが生まれ、妻は子の世話をしていた。つまり私が生活費の調達担当だった。しかしドイツで私が十分な収入を得るのは難しい。そこで「家庭内人事異動」だ。70%主夫、30%ジャーナリストという生活が始まったわけだ。

2.やっとコーヒーが飲めた

 さて、育児を一種の「タスク」と考えた時、職場での仕事とはかなり異なる。それを明確に意識させられたのが、「主夫」一日目だった。
 妻たちは私より一足先にドイツへ行き、住む場所を用意した。私は日本を発つ直前まで仕事。最後は徹夜で原稿を仕上げて飛行機にとび乗った。ドイツに到着して翌日から4歳、2歳、8ヶ月の子どもと終日過ごすことになった。オムツの交換や食事をはじめ、次から次へと対応しなければならないことがおこる。部屋は未開封の引っ越し荷物の箱だらけ。子どもがお茶をこぼしても、タオルを“発掘”しなければならない。安全の配慮も四六時中必要だ。ヘトヘトになってその日はすぎた。2日目に一杯のコーヒーを飲むことができ、ようやく一息ついた感じはいまでもよく覚えている。
 もっとも実は、その数年前にもしばらく育児経験があったので大変なことは分かっていた。しかし、この時はまるでスイッチを切り替えるかのように「仕事」から「育児」にかわったことから、「タスク」の性質の違いがよりはっきりしたわけだ。

3.生理的時間と合理的時間

 「タスク」の性質の違いとは、なんだろうか。それは一言でいえば時間感覚の違いだと思う。
 大人は基本的に合理的時間とでもいえる時間の中で生きている。特に仕事の時間感覚はそうだ。納期があれば、逆算して計画をたてる。私の仕事も締め切りに合わせて予定をたてるし、予定通り行かなかった場合は食事も適当にすませ、睡眠時間を削ることもある。「食欲」「睡眠」という生理的なものを排してでも、合理的な時間に肉体をあわせているわけだ。もっともこれをやり過ぎると病気になるし、過剰に強制する職場は「ブラック」と最近は呼ばれている。
 それに対して子ども、特に乳幼児は生理的時間とでもいえる時間の中で生きている。睡眠と食事、そして排泄が基本になっているのだ。もちろん、ある程度リズムをつくることはできるが、なかなかこれがうまくいかない。育児とは子どもの生理的時間を優先した「タスク」といっても過言ではない。

4.育児をめぐるトライアングル「疲労」「責任」「喜び」

 育児は「疲労」「責任」「喜び」のトライアングルの中で行う行為でもある。
 「疲労」とは、生理的時間に生き、制御がきわめて難しい子どもに対応しなければならないストレス。そして体力的な負担である。
 例えば昼寝をさせて、PCの前に座ったとたん、お決まりのように泣き出す。下の子どもに離乳食を食べさせている横で別の子どもが皿をひっくりかえす。こういうのが続くと親のほうが泣きたくなる。
 ドイツの冬は寒いのでつなぎのような防寒具を着せるのだが、着替えに一人平均10分。合計30分はかかる。それから彼らの視線は大人より低い。一緒に歩けば、虫を見つけたと座り込み、なかなか進まない。「合理的時間」などという感覚をもたない彼らとバスに乗ろうと思うと、バス停までもが困難な道のりになるのだ。この頃「クリスマスプレゼントは何がいいか?」という類の質問には、「自分の時間」と決まって答えていた。

5.我が子が悪魔に見える時

 2つめの「責任」は重い。しかも子どもの安全確保から教育までと範囲も広い。これらのことを全うしたければ、できるだけ、心穏やかに、体力を保持したほうがよい。そうでなければ、疲労とイライラで「生理的時間」に生きる天使のような我が子が悪魔に見え、つらくあたってしまうことが増えるからだ。職場では社会性というブレーキが効くので多少疲れたり、イライラしていても、声を荒らげたりすることを抑えることができるが、家は感情を容易に出せる場所だ。
 これに気づいてからは、私はできるだけ規則正しく、かつきちんと睡眠をとるようにした。すると散歩中に子どもが虫を見つけて座り込んでも、一緒に腰を落とす精神的余裕がうまれ、「育児を楽しんでいる」という実感が持てる。ただし、街の歩道でこれをやると、結構怪しい。他の通行人はじろじろと見ていく。

6.これがあるからやっていける

 最後が「喜び」である。特に乳幼児から幼児にかけては、毎日が記念日だ。
 笑うようになった、寝返りをうった、自分でスプーンを持つようになった、はいはいをするようになったなどなど。日々ほんの少し成長する瞬間に遭遇できるわけだ。
 それに、子どものとんちんかんな発言や行動に笑わされることもある。一度、子どもの一人が小さな自分のリュックサックをかたつむりの殻で一杯にしていたのを発見したことがある。「コレクション」だった。見つけたときは「すごいねえ」と大笑いした。こういう喜びや楽しさはまさに育児というタスクの報酬だ。これがあるからやっていける。

7.仕事のほうに価値がある、と思っている?

 さて、ここで、なぜ男性は育児に参加しにくいか、ということについて考えてみよう。
 まずは、女性は妊娠した段階から「子どもがいる生活」に向けて、少しづつ身体的なリアリティを獲得していく(ように見える)。これは「育児」に臨むにあたり、想像以上の「準備運動」になっているように思えるのだが、どうだろうか。ところが、男性にはこのプロセスがない。
 また(これは、性別は関係ないが、)一日のほとんどを仕事に費やしていると、「合理的時間」感覚のほうが強くなる。仕事と育児の両立とは、質の異なるタスクの切り替えである。これは、けっこうたいへんだ。
 さらに、仕事がメインになってしまっていると、両立云々以前に、「生理的時間」にあわせたタスクとはどのようなものか、想像もつかなくなっている。だから、育児を担う妻がどういう事態にあるのか理解がかなり難しく、下手をすると「育児って、子どもと遊んでいるだけで、楽じゃないの?」と心のどこかで思っている。あるいはタスクの質の違いを理解せず、仕事のほうが育児より価値があると考える人も少なくないのではないか。蛇足だが、こういう考え方は、安いといわれる保育士の報酬にも少なからず影響しているかもしれない。
 それから仕事は経済活動とつながり、わかりやすい成果や評価が出てきやすい。そこに充足感や誇りも生まれる。裏を返せば、育児に専念していると、職業人として取り残されていくような気持ちになる。これは私自身も体験した。
 以上のようなことが、男性の育児参加の難しさの個人的要因になっているのではないか。もちろん、それ以外に、職場や国の制度、社会の価値観などの「枠組み」も育児参加の壁になっている。次回はそういった面から考えてみたい。