第3回 女性による映像表現

 映画に“男の目”“女の目”はあるのだろうか。もちろん、男女の前に個人としての“私の目”があるわけですが、ジェンダーの視点で言えば、男の目、女の目は確かにある。男性が女性を見る目は、確かに女性が女性を見る目とは違う。英語でも“man’sgaze(男の凝視)”という言葉があります。その逆ももちろんあって、女性が映画を撮るときには、女の目で人や物事を見るわけです。

1.男の視点・女の視点

 女性が映画を作る意義について、フランスの大女優で自らも優れた監督であるジャンヌ・モローは、かつて来日した折りに記者会見でこう語っています。「女性は男性のコピーではない。(映画において)男性と同じことをするのではなく、女性の文化を(従来の)男性の文化に付け加えることで真の人間文化を創らねばならない」と。

 けだし明言! 女性と男性は、違うのです。違うからこそ、違いを生かした複眼の視点が大切なのですね。違う者同士は対等であるべきなのに、片方だけが優位に立つのがおかしいのです。男性、女性の違いを生かした複眼の視点が大切。それに、それぞれの個性の違いが加わって、映画文化に広がりと多様性とバランスが生まれます。
 では、男性の作る映画と女性の作る映画とでは、どんな違いがあるのでしょうか? 作り手の側の性別は映画にどのように表れるのでしょうか? それは究極的には、男女を超えた個性とはいえないのでしょうか? 実は、実際の映画において、男女の性的あるいはジェンダー的な違いはどこにどのように表れるのか、を分析、解明した研究はまだ十分には行われていないのが実情です。これから行われるべき興味深い研究課題なのです。

2.性の表現

 しかし、見ればはっきりと男女の視点の違いが分かる映画はあります。性を描いた作品、とりわけレイプを描く場合、男の視点、女の視点がもっとも顕著に表出しやすいのです。典型的な例として、カナダと日本の2本の作品をご紹介しましょう。

  1. 女の視点で描いた映画の例

    カナダ映画「声なき叫び」(アンヌ・ポワリエ監督、1978年)の冒頭場面。

     夜勤帰りの看護師スザンヌが、突然見知らぬ男にナイフを突き付けられトラックの荷台に連れ込まれる。男は「女なら誰でもよかった」とうそぶきながら、スザンヌの両手を縛り衣服を切り裂き、暴行する。口を歪め、涎をたらして罵倒し、殴り、のしかかり、ねちねち女への恨み言を繰り返し、犯し続ける男。脇の下の汗もリアル、被害者に向けて放尿するとカメラのレンズが濡れる。ときどき画面が真っ暗になるのは、スザンヌが恐怖と嫌悪感で目を閉じるから…。

     このすさまじいレイプシーンは、それまでのどんな強姦場面とも違っています。カメラはスザンヌの目となり、強姦という犯罪行為を見据えます。女性の裸は一切画面に登場しません。わずかに画面の端のほうにちぎれた下着らしい物や女性の手足の先が映るくらい。代わりに、強姦する男の姿が画面いっぱいに迫って、被害者の嫌悪感や恐怖感が伝わってきます。

     それまで映画で強姦が描かれるのは、ほとんどがポルノ映画で、被害者の女性が抵抗しながら暴力に屈し性的に蹂躙される姿を、眺めるように外側から描いています。画面を見て興奮するのは男性で、被害者の女性の気持ちなどまるで存在しないかのようです。しかし、この映画はまったく反対の側から犯人の男を見返す。どんなにレイプが女性を傷つけ、人格を破壊するものか。レイプする男の醜さを仮借なく描くことで、この犯罪性を浮かび上がらせます。映画では、警察に訴えたスザンヌがどんな惨めな扱いを受けたか、叫ぼうにも声が出なくなったスザンヌは、もはや恋人の愛ですら受け入れられなくなり、ついに自ら命を絶ってしまうのです。
     映画の主調ともなるこの冒頭場面のインパクトの強さは、女性監督ならでは。まさに女の視点の典型といえるでしょう。

  2. 男の視点で描いたレイプシーン

     日本映画「DV」(中原俊監督、2005年)は、内閣府の「20人に1人の女性が配偶者から生命に危機を感じるほどの暴力を受けている」との有名な全国調査などの深刻なDVデータを映像で描いた作品です。 
     結婚3年目の41歳と29歳のDINKS(子どものいない共働き夫婦)の恐るべき家庭内暴力の実態をドラマ仕立てで描いている。些細なきっかけで夫の暴力が手の付けられないほどにエスカレートしてゆく。妻を家庭内に閉じ込め、孤立させ、気に入らない態度には暴力の嵐。風邪で寝ている妻にまるで強姦のようなセックスの強要…。
     恐らく実例に基づいているのでしょうが、次々に展開するDV場面は恐ろしいほど。表現に抑制は効いているものの、仮借ない性描写を含めてまるでサディズムやポルノ場面と錯覚しそうな“男の目”を感じさせられます。
     動機は真面目な社会派映画といえども、DVの含むこうした面は、ただ行為を描くだけでは“刺激的な他人ごと”で終わる危険がある。被害者側の恐怖感や嫌悪感、心身の傷の深さに光を当てることで、DVは決して“愛の変形”などではない、犯罪であることが明らかになるはずです。もしこの映画が女性監督の手になったら、どのように描かれたでしょう。

3.女性監督はいま

 映画は面白ければいい、作る人が男女どちらでも関係ない。また、女性監督なら誰でも女の言い分を映像で表現してくれるとも限らない…そのとおりでしょう、もし映画監督の数や製作環境が男女まったく同じならば。
 しかし、そう言える映画製作状況にはまだ残念ながら到達していない、というのが私の実感です。では、女性監督はいまどのくらいいるのでしょうか。

  1. 世界の女性監督

     世界の女性監督の数は、フランスのクレテイユ国際映画祭ディレクター、ジャッキー・ビュエさんによる「約8000人」が定説になっています。戦後日本で公開された外国映画のうち女性監督作品は、1965年のフランス映画「幸福」以来、年に0~5本の時代が永らく続き、1983年に5本を超え、3年後には10本、さらに2年後には20本を、1992年には30本に達したのです。比率的には2001年に10%(341本中の36本)の壁を越えて以来、毎年着実に伸びていたのが、2004年から陰りが出始め、2006年には18本と激減してしまいました。(「女性映画がおもしろい」2007年版より)

  2. 日本の女性監督

     一方、日本では、特に21世紀に入ってから女性監督が急増しています。国内で公開された日本映画のうち、2001年には5本が女性監督作品、2002年には8本、2003年6本、2004年6年、そして2005年には14本、さらに2006年には25本と目覚ましい躍進ぶり。といっても、全体の中ではまだ1割にも達しないのが実情です(同書より。)しかも、半数以上が新人監督のデビュー作なので、何年も作り続けるプロの女性監督として定着するにはまだまだである。ということは、逆にいえば、彼女らが何とか映画をつくり続け、しかもこの勢いで新人監督が誕生し続ければ、日本の女性監督はやがて世界並みになるでしょう。それを期待したいものです。
     女性監督の人と作品については、紙面が尽きましたので、次の機会にまた。

[参考資料]

  • 高野悦子著「私のシネマ宣言~映像が女性で輝くとき」
  • 羽田澄子著「私と映画」
  • 松本侑壬子著「映画をつくった女たち~女性監督の100年」
  • 浜野佐知著「女が映画をつくるとき」
  • 松井久子著「ターニングポイント」

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