第2回 男女共同参画の理念と実践との整合

1.変わる市民意識

 これまで多くの自治体が、男女共同参画に関する条例や計画の施行、そしてその理念の頒布・広報に取り組んできた。条例や計画の策定はもとより、懇話会や審議会、また庁内会議や市民会議の場で、何度も議論や勉強会を重ね、市民意識の啓発につとめてきたところも少なくない。そして、こうした地道な活動や啓発は、市民の意識や考え方に少なからぬ影響(変化)を与えた。たとえば、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業意識を見ても、男女の役割意識の変化(否定)が進みつつあることを示しており(図を参照)、これまでの活動や啓発が、市民の意識や考え方に変化を与え、「固定的な役割(意識)」「(男性が優遇されているという)不平等感」を解消させる方向に向かわせるという大きな成果を生んだ。

 しかし、夫婦の「共働き」比率の伸びが平成に入ってから鈍化傾向を示し、また地域活動への参加も減少、さらにセクハラ、DV、ストーカー行為などの被害体験が横ばい、もしくは増加傾向にある、などといった調査報告を見ると、男女共同参画の理念が、必ずしも市民の「実際の行動」に結びついていないのではないか、という疑念を抱かざるをえない。
 ここでは、市民の意識が着実に「平等化」へと向かう一方で、どうしてこうした意識の変化が、実際の行動へと反映されないのか、という点について考えてみたいと思う。

2.意識と行動の乖離(かいり)

 このような意識と行動の「乖離」を発生させる原因のひとつは、男女共同参画の理念のなかにある。男女共同参画の理念の軸となるのは、第1回でも触れたとおり、「(多様性を尊重する)自由」と「(男女の格差を縮める)平等」という「2つの論理」である。これらの論理は「自由を得るために、平等を保障する」という文脈では矛盾するものとはならないが、状況によっては、「論理矛盾」ないし「乖離」をひきおこすものともなりうるリスクをはらんでいる。つまり、強く「結果の平等」化をはかろうとすれば自由は抑制されることになるし、また過度の自由放任は「結果の平等」を損なうことにもなる。基本法前文に記載されている、いわゆる「個性と能力を十分に発揮できる」自由が保障されるような社会では、同法第二条の「結果の平等」をもたらさないことも十分考えられるわけである。同法が(この点において)「論理矛盾」をはらむ法律であるといわれる所以でもある。こうした「矛盾」が、今日、男女共同参画の理念を施策化するうえで(政策目標や行動指針を決定する際の)、ひとつの障害(ないしはジレンマ)ともなっているのではないか。
 たとえば、自治体の男女共同参画計画には、「審議会等への女性の参加比率」「管理・監督職への女性の登用率」などについて一定の数値目標を設定し、その数値をクリアすることを成果目標として定めているものがある。しかし、それを推進する自治体では、「意思決定の場への女性の積極的な登用、参画」について、内部のコンセンサスが得られぬまま、ただ「数値のみを上げざるを得ない」といった消極的な登用、参画をもって対応しているという現状がある。とくに「女性自身が管理職や監督職への就任を望んでいない(とされる)」ケースでは、こうした格差是正措置(「結果の平等」化)が、女性の「管理職・監督職に就かない自由」を侵害することにもなりうるわけで、場合によっては、それが、成果目標(数値目標)の設定そのものを疑問視する声へとつながる可能性もある。
 自治体にとっては、男女共同参画の理念の軸となる「2つの論理」をともに忠実に遂行することによって、かえって「『多様性を確保する』ための措置が『多様性を否定する』というジレンマ」を抱え込むことになってしまうのである。自治体が、男女共同参画計画を積極的に推進できない背景には、その理念のもつ論理的矛盾(とうよりも、そのあいまいさ)によるところが大きいと考えられる。

3.意識と行動の使い分け

 また、「意識」の面では着実に「平等」化が進みつつあるが、それがそのまま市民の「行動」に結びつかないといった、いわゆる市民の「意識と行動の乖離」が顕在化している。これは、現実に即したかたちでの「意識と行動(役割)の使い分け」といってもよいかもしれないが、少なくとも、市民の多くが「男女共同参画は、理屈としてはわかっていながらも、それを自身の行動に移す機会が少ない(機会がない)」という考えに依拠した結果といってよいだろう。
 「依然として、市民に男女共同参画の理念が浸透していない」といってしまえばそれまでだが、私はむしろ、市民が男女共同参画の理念をふまえ、それを実社会で進めていこうとした結果生じた「妥協案ないし折衷案のあらわれ」であると考えている。すでに、市民の多くは、少なくとも男女の(とくに、機会の)平等は保障されるべきであるとの認識を有しており、男女平等の理念の浸透をめざしたここ数年来の国や自治体当局の啓発・広報は、一定の成果を上げてきたと思われる。しかし、市民の行動は、当初の予想とは別のところへ向かってしまった。男女共同参画の柱ともいえる「個々の多様性を尊重する自由」という理念が、市民の行動を(結果的に)「男女の平等」化という方向に向かわせず、「自由を認めてくれるのなら、このままでもいいだろう」という現状を維持する方向へと向かわせることになってしまったのである。つまり、「多様性という『自由』を確保するために、男女の格差を縮めて両性の『平等』を保障する」という男女共同参画の理念が、「意識を『平等』にしておけば、行動は『自由』でよいではないか」というかたちで浸透し、結果として「意識と行動の乖離」となって表面化、顕在化したということである。
 男女共同参画推進の立場からすれば、この結果はまさに「意図せざる結果」であり、今後、「意識と行動の接合」をはかるためには、条例や計画内容の見直しを検討することも必要になってくるだろう。しかし、市民としてみれば、男女共同参画の理念には理解を示しつつも、それを日常生活のさまざまな場面で実際の行動にうつすとなると、まだまだ難しいという現実がある。そうした市民の妥協案、折衷案ないし苦肉の策ともいえるものが、「意識と行動(役割)の使い分け」である。こうした男女共同参画の理念のもつ「2つの論理」を実生活のなかで使いわけるという試みは、市民の柔軟性の高さを象徴するものでもあるわけだが、反面、国や自治体の男女共同参画関連法令(ならびに計画)のあいまいさを象徴するものともいえるのではないだろうか。「多様性という『自由』を確保するために、男女の格差を縮めて両性の『平等』を保障する」という男女共同参画の理念を施策へと転化するためには、多様な人々を対象とするプラン・メニューを用意するとともに、格差を縮めるための、また人々の行動をかえうるだけの一定の強制力をもった法令や計画の策定が求められる。「意識と行動(役割)の使い分け」が可能な法令や計画に依拠しているかぎり、男女共同参画の理念を実社会で、また、まちづくりの現場で具体化し、実践することは難しいといわざるをえない。

図「夫は外、妻は家庭」という考え方の推移

zenkokutyousa

[参考資料]

  • 「平成20年度版男女共同参画白書」内閣府