第3回 構成されたメディアによる現実機能を批評的にとらえる

1.メディアはオーディエンスのニーズにも応じなければならない

 最終的にできあがって私たちに届けられているパッケージ(商品)であるメディア情報が、構造的に、必ずしも正確で客観的でない可能性があるのは、公権力、法律・制度、政治家、広告主などから有形無形の圧力を受けたり、メディア側が萎縮したり忖度したりするせいだと述べましたが、メディアのあり方やその内容を規するのはそれだけではありません。
 もとより最終的なメディアの「顧客」は、視聴者・読者・ユーザーである色いろな人びと(オーディエンス)です。作り手、外部権力、そしてオーディエンスの相互交渉関係(ネゴシエイト)によるトライアングルが、メディアを決定していると言うことができるでしょう。オーディエンスの意見やニーズは、テレビ局や新聞社、出版社などに寄せられる意見、取材やモニターを通じての調査などからも汲み取りますが、端的に番組の視聴率、新聞や雑誌・書籍の売り上げ部数、CDやDVD、ゲームソフトなどの売り上げ枚数、ウェブなどのヒット件数などがその「売れ行き」をあらわします。当然、これらの売れ行きにメディアの内容は左右され、「より見られる=より売れる」情報がめざされることになります。
 しかしながら、多くの人に支持されるものが「いい番組」「読みたい記事」「すぐれたサイト」であるとは限りません。また、沢山売れたことが情報の正しさや公平性を意味するわけでもありません。悲惨な事件・事故の報道は、確かに人びとにその悲惨さを共有させ、憤りをもたらし、予防意識などを高めますし、他者の不幸を消費することによって自分の安全に安堵する心理的効果もあります。しかし場合によっては怒りを過度に加害者に向けたり、さらには被害者へのいやがらせ・いじめにつながったりするケースはたくさんあります。報道を信頼していたら犯人は冤罪だった、推奨された食べ物は効果がなかった、あの番組はやらせやだった、記事は捏造だったということもしばしば生じています。
 逆に、視聴率や部数が伸びないからと言ってそれがダメなものとは限りません。けれどもそれは多くの人にCMや広告が見られていないという理由から広告主(スポンサー)離れによるCM・広告収入の減収をもたらし、また新聞・雑誌などはさらに販売収入も直結していますから、打ち切りや休・廃刊の憂き目をみることにならざるを得ません。継続を望むのであれば、「売れる」コンテンツ(情報内容)にしなければならなくなります。いきおい、視聴率、部数、ヒット数を上げるために、ポピュリズム(大衆迎合主義)がメディアでもはびこることになり、どこも同じようなタレントの登場やワイドショー、バラエティー番組、横並びの記事、センセーショナリズム、ホントかウソかわからない雑誌記事、無理を重ねた暴力的な取材、ただバッシングするだけの番組や記事、女性の性を商品化した作品などがメディア上に溢れることになります。性を商品化した番組や記事、作品、サイトなどは、あからさまに視聴率、部数、ヒット数などが高くなるという事実があり、スポーツ新聞のポルノ面や一般週刊誌のヌード写真は、だからやめられないのだと聞きます。

2.メディアは物理的な限界がありわかりやすく構成されている

 もう1点は、メディアにはその形態からくる様ざまな限界があるということです。テレビ画面は、たとえ生中継によるマルチカメラであっても、また音声や映像がリアルであっても、時間やシーンは切り取られたものに過ぎず、事物を100%中継し再現しているわけではありません。録画番組ともなれば様ざまな演出がほどこされ、音入れやカットや別シーン挿入などの編集が行われています。新聞・雑誌の見出しはキャッチーでセンセーショナルで、記事の本論は結論をわかりやすくしなければなりません。何よりも、これらは秒単位の時間に追われて放送・印刷時間までにパッケージ化(商品化)しなければならず、時間がくれば中身はどうあれ放送され印刷されてしまいもはや訂正ができません。しかも報じられる時間枠や記事スペース、ページ数などは限られており、インタビューは、テレビでたった15秒、新聞で5行などというのが少なくありません。現場の映像も3分、雑誌の写真は1枚といったところです。どんなに時間枠・スペースを広げてもニュース1時間、ドキュメンタリー2時間、新聞1ページ、雑誌5ページが限度というものでしょう。
 どだい、これで事物の「全体像」が掴めるわけがないのです。メディアのつくり手(エディター)はそういった制約についてよくわかっていますが、私たちオーディエンスはそのことまでよく思い至らないまま漠然と接しているのではないでしょうか。つくり手側も自分たちのメディアの構成手法が人びとに限界あるものとして了解されていないことを理解しないまま、日々締め切りに追われて垂れ流している感があります。
 たとえば現実には多様な女性や男性が存在するにもかかわらず、メディアに登場する女性や男性は、現実の一部から切り取られたり、演出をほどこされたり、編集された人物像でしかあり得ません。女性は若く、美しく、官能的で、控えめで、男性はあくまでカッコよく、渋く、素敵なマスクという典型的なジェンダーがこのようにして構成されていること、すなわち現実に存在する多様なジェンダーを反映しているとは限らず、そうでない人(たとえば、太って、図々しい女性のタレント、なよなよした男性の出演者は、「お笑い」の対象となります)はフリークス(異形のもの)として扱われるよう構成されていることを、エディターもオーディエンスもよく認識しておく必要があるのではないでしょうか。
 さらにもう1点、実はエディター(そしてメディアに対する発言権のある広告主や政治家などの有力者たち)の多くは、男性たちであるという実態があります。ステレオタイプな女性像がメディアで溢れているのは、こういった男性たちの視点によるところが多分にあると考えられます。
 ジェンダーはつくられたものであり、ことばによるカテゴリーであって、性の別による決めつけは禁物と第1回目に述べましたが、メディアもつくられたものであり、ステレオタイプなカテゴリー化を行って人をくくり、決めつけられた側にとってはそれが暴力になるという点で、両者は同じ構造をもつと言えるでしょう。

3.オーディエンスにも、またエディターにも必要なメディア・リテラシー

 このようにして様ざまな要因によってつくられた(構成された)メディアは、ひとたび視聴され、読まれ、見られ、聴かれると、オーディエンスの単独の経験と集団の経験によってその情報が「1人歩き」してゆきます。私たちが知ったできごとは、音が加えられバックに音楽が付き、映像が切り取られ、様ざまにコラージュされ、アナウンスが吹き込まれ、1行の見出しに凝縮され、書き手の主観が入り、ある位置から撮った1枚の写真であらわされたメディア表現を通じてであって、決して現場を体験し、現物や当人を知っているわけではありません。にもかかわらず私たちは、さも見てきたかのように、旧知の人であるかのように、それを話題にし、知識とし、日々を生きています。つまり、構成されたメディアが現実を構成しているのです。
 犯人でなくともメディアが「犯人」とすれば、それは私たちにとっては犯人となり(だって私たちは本人のことは知らないし、調べようがないのですから)、実験によってある食べ物が痩せる効果があるとメディアが報じれば店頭からその食べ物はなくなり(だって私たちは「実験」などできないのですから)、今年はこの色が流行ると女性雑誌が化粧品の記事を書けばその色が流行(はや)る(なぜ流行する前からメディアはわかるのでしょう?!)、こういう現象をメディアの現実構成機能と言います。これは一種のメディアの影響力であり、こうなると意図的にであれ無意図的にであれメディアによる一種の情報操作とさえ言えます。
ですが、メディアが構成されているものだということをあらかじめ了解し、そしてそのメディアによって私たちの「現実」が成り立っているということを理解しているとすれば、それはどうでしょう? 様ざまな要因によって送出されたメディア情報であるということを読み解き、情報を主体的に吟味し、現場のことに想像力を及ぼし、自分で正否を判断する努力を行って、現実を生きることは、メディアによる間接的コミュニケーションが肥大化せざるを得ないであろうこれからの時代、必要な力ではないでしょうか。それは、道具としてのメディアを使いこなすことにもつながります。またメディアを使いこなすことは、自らが情報発信者となってゆくこと、つまり豊かなことばや映像などを駆使してコミュニケートする主体となってゆくことをも意味します。
 このように、

  1. メディアを批判的に分析し評価する能力
  2. メディアに能動的にアクセスする能力
  3. 多様な形態で主体的にコミュニケーションを創り出す能力

 これらの市民の力をメディア・リテラシーと言います。
 これまで女性は、知識を得ることから遠ざけられ、パソコンなどのメカ(ICT)から疎外され、表現することや主張することを抑圧・制限されてきました。しかし、書きことばである文字が一握りの知識階級から人びとに行き渡ったように、印刷機が権力階級の独占物であった本を人びとに広めたように、軍事的な道具として発展したラジオやテレビが間もなく世界中の人びとの知識向上や娯楽のために普及したように、女性がメディアを掌中にして表現し主張しコミュニケートすることは容易な時代がやってきています。メディア・リテラシーを獲得した女性たちにより、エディターおよびオーディエンスの中心であった男性たちの視点によるこれまでのメディア情報と現実社会の構造的な関係が、変わってゆくことでしょう。また、つくり手であるエディター自身も、自分たちが構成しているメディアについて批判的・客観的にとらえ直すべく、メディア・リテラシーの獲得が必要とされていると言えるでしょう。