第1回 コミュニケートする自由と権利の道具としてのメディア

1.メディアは人と人とをつなぐ情報の乗り物であり道具である

 「メディア」ということばは、一般的にテレビ、新聞、ラジオ、雑誌、書籍などのマス・メディアを意味し、情報の大量生産・大量伝達、人びとによる大量接触・大量消費をその特徴とします。映画、CDなどの音楽ソフト、ビデオやDVDなどの映像ソフト、ゲームソフトなどもおおむねマス・メディアの範疇に入れられます。マス(mass)とは大衆という意味です。一方、マス・メディアに対してパーソナル・メディアという言い方をすることがあり、電話、手紙、電子メールなど、個人と個人をつなぐものをさします。
 ただし、雑誌や書籍、CDの中には少量生産や自家製のものも少なくありませんし、逆に、ダイレクトメール(DM)や一斉送信の電子メール、携帯電話サービスなどの中には膨大な量が発信されているものがあります。またインターネットのホームページやブログ、掲示板などでは、アクセス数が何万人を超えるサイトもあります。このように、現在ではメディアにおける「マス」と「パーソナル」の境界がボーダーレス化してきているのが特徴だと言えるでしょう。それだけに、これまでにない社会問題や制度変更が生じてきています。
 英語の名詞であるメディア(media)は実は複数形で、通常、英語圏ではmediumと単数形で用いられることが多いそうで、「ミーディアム」と発音します。ご存じのように、ステーキの焼き方でよく知られていることばで、「中間」というくらいの意味があります。つまり、人と人との仲立ちをする情報の乗り物がメディアというわけです。
 またメディアは日本語では「媒体」と訳されます。触媒の媒、そしてボディ(容れ物)という語を充てていることから、やはり人と人とを出会わせる情報の容器くらいの意味が胚胎(物事の起こる原因やきざしが生じること)されていて、なかなかの名訳だと思います。
 これらメディアはなぜ生じたのかということを考えると、それは「人間」が「動物」とははるかに隔たってしまったからだということに思い至ります。動物と同様人間は、身体が発する匂い、表情、しぐさ、音声などでコミュニケーションを取っていますが、それだけでは充分に意思疎通ができないために、「ことば」を発明しました。喋りことばと書きことばは動物にはない芸当です。が、それとても大量に伝えたり遠くへ伝えたり、コミュニケーション(やりとり)を行うには限度があります。
 その限界を補うものとして大昔の人間は道具を発明し、その道具に記号や絵画や文字や彫刻などの形で情報を盛り込むことに成功しました。やがて15世紀には、印刷機という、文字を大量複製できる道具をつくり上げ、19世紀には音声の保存や複製、写真の複製、そして動く写真、内燃機関(蒸気、ガソリンや重油などで動力を動かす機械で、産業革命においてオートメーションや交通手段として飛躍的に生産性向上や高速移動を可能にした)によって人間やモノや情報を大量・高速に移動させる交通手段、さらには遠くへ到達する電波による音声送信とその再生装置をつくり上げます。これらの延長線上に、20世紀のテレビとコンピューターがあることは言うまでもありません。
 これらは個人の人間関係から社会システムに至るまでのコミュニケーションのあり方を大きく変容・発展させましたが、メディアという道具は、もともと人間のコミュニケーションと不可分なものだったのです。
 したがってメディアとは、情報の乗り物であり、それはコミュニケーション(会話、伝達、通信など情報のやりとりや情報の共有)のための道具(マス/パーソナル問わない)というくらいの意味になると考えてもらえばいいでしょう。

2.コミュニケーションの自由は基本的な人権

 このように、本源的・歴史的に人間にとってコミュニケートするための必要不可欠な道具であったメディアは、今や私たちの日常生活にすっかり入り込んでいます。
 朝起きて最初にやることは、テレビを点けること、新聞を取り出してくること、パソコンのスイッチを入れること、ケータイをのぞくことのどれかである人は多いのではないでしょうか。眠っている間に世の中はどうなっているか(どこかで事件・事故が起きていないか、大地震の予知が出ていないか、株価はどうなっているか、メールは入っていないかなどなど)気になるからです。
 満員の通勤や通学時でも音楽やラジオ、英会話を聞きながら、また文庫本や新聞や雑誌を読みながら、出かけます。もちろん、今日の天気はどうか、今日の安売りは何があるか、何か面白いテレビ番組はないか、これから外食をするけれどどこかいいお店はないかといった即時的な情報を手に入れるためにも、我われはメディアを利用しています。また映画や自宅で観るワイドショー、ドラマ、バラエティーは恰好の娯楽です。アニメやマンガをはじめ「オタク」趣味のメディアはすっかり市民権を得ました。ケータイメールやmixiは友だちとの大事なコミュニケーション手段で、返事や書き込みが強迫的に気になります。
 今や私たちはよきにつけ悪しきにつけ、もはやメディアなしでは生きていけません。私たちが「使う」メディアから、私たちが「使われる」メディアになってきているとしたら、道具がしばしばもたらす逆転現象がメディアにも及んでいるのでしょう、このことはあとで述べるメディア・リテラシーと深くかかわってくることになります。
 しかし、かつてだったら知ったり経験したりできないようなことを、本や新聞やテレビを通じて知り、経験することができ、かつてだったら出逢うこともできなかった遠い他者ともコミュニケートできるこの世界、この時代は、やはりいい世界・いい時代だと言わなければならないでしょう。メディアを自由に利用することは、 私たちのコミュニケートする権利(移動し、出会い、集い、話し合い、聞き、見、読み、そして自分が表現したいものを話したり書いたり描いたり撮ったりする基本的人権)とも深く関係しています。
 けれども、この世界、この時代にも、こういったコミュニケートする権利から疎外されている人びとはかなりの数にのぼることも私たちは知らなければなりません。たとえば近代の日本は、女性であることを理由に、1人称でものを書くことを禁じられたり、新聞なんか読むんじゃないと言われたり、本を読んで知的になることを好まれず上級学校への進学希望を諦めさせられたりしてきました。今でも親は娘の、夫は妻の、行動範囲を狭める傾向があります。女性だからといってこの権利や自由が間接・直接に制限されるようなことがあってはなりません。地域や人種や文化、ジェンダー(社会・文化的につくられた性別)による情報格差(情報デバイド)は、結局は知的・経済的・文化的貧困につながり、被支配の恒常化・固定化につながります。可能性に開かれた個人を、メディア情報の格差によって閉じさせたくないものです。