第2回 性の別というカテゴリー暴力とメディアの構成のされ方

1.女性はテレビ好きで男性は新聞・ネット好きか?

 さて、メディアは、それ自体の魅力(たとえばテレビの速報性や臨場感、新聞の詳報性や解説性、雑誌のグラビア写真の美しさ、携帯電話で親しい人から来たメールの嬉しさや手で握った感じ、パソコンのキーボード操作そのものの楽しさ、等々)も大いにありますが、やはりその内容(情報)に第一義的な価値があることは間違いありません。
 メディア情報は、それぞれの人の興味や職業上・勉学上・生活上のニーズと深くかかわるため、属性(年齢、職業、地域、学歴、収入等)によって接触するメディアの種類やメディア内容がけっこう異なる場合があります。その「属性」には性の別も含まれ、性別によって接触する内容が異なる(ジェンダー差)のもまた確かです。典型的には、「女性雑誌」というジャンルが存在すること自体そうですし、多様な情報が網羅されている新聞でも「家庭面」は女性の閲読率が高いという事実も、そういった傾向を裏打ちしています。
 毎日新聞社が2006年秋に行った読書世論調査によれば、1日のテレビ接触時間量は女性が全体平均で189分(接触者平均では198分、以下カッコ内同じ)、男性が165分(173分)、1日の新聞接触時間量は女性が32分(41分)、男性が41分(50分)、1日のネット時間量は女性が26分(75分)、男性が39分(87分)、また1カ月あたりの単行本・文庫・新書閲読冊数は女性が1.2冊(3.8冊)、男性が1.6冊(4.5冊)、1カ月の週刊誌・月刊誌閲読冊数は女性が1.6冊(3.8冊)、男性が2.3冊(4.9冊)、1カ月のマンガ本閲読冊数は女性が0.8冊(3.8冊)、男性が1.3冊(4.9冊)と、テレビを除いていずれも男性の方が多くなっています。
 女性と男性との差をみると、テレビで24分女性が高く(接触者では25分、以下カッコ内同じ)、あとは新聞9分(9分)、ネット13分(12分)、書籍0.4冊(0.7冊)、雑誌0.7冊(1.1冊)、マンガ本0.5冊(1.1冊)といずれも男性が高く、中でもテレビは女性、新聞とネットは男性といった傾向が目立つようです。
 このデータを、生得的な性差(生まれながらの違い)、すなわち男性の方が女性よりも情報取得行動が発であるとか、女性=ビジュアル好き/男性=文字言語・電子メディア向きとか、ましてや女性=情緒的/男性=理知的、などと図式的にとらえ本質主義に還元してしまっては、それこそ本質を見誤ってしまうでしょう。

2.カテゴリー化による「決めつけ」は暴力にもなる

 人口学的な構成を考えれば、女性に家事専従の人が多い実態、女性に高齢者が多いこと、そして男性に勤め人が多い事実などを勘案しなければなりません。会社の行き帰り時や外回り時、また会社でも新聞や雑誌を読むことのできる男性、また会社で「仕事」にかこつけてパソコンでインターネットをやり、自宅でも家事や育児をせずにネットができる余裕のある男性と、家事専従や高齢で在宅している割合の高い女性がテレビを長時間視聴していることは、必然的な道理です。高齢になると新聞や雑誌など小さな文字を読むのが億劫になりますし、家事をしていれば新聞をゆっくり読んだりパソコンをしている余裕は取れません。なぜならば集中力を要する新聞や、両手を使わなければならないパソコンは、点けっぱなしで「ながら視聴」のできるテレビと、そもそも特性が違うからです。
 こういうふうに、性の別による意識や行動の違いを、多様な社会的文脈の中で構築された(つくられた)ものととらえ、簡単に決めつけないことは、ジェンダー(社会的・文化的・歴史的につくられている性の別)について考える時に大変に重要な視点です。
 人は様ざまな側面から成り立っており、役割や性格や性向を性別や県民性、また国柄や人種・民族などだけで説明することは不可能、果ては血液型によって規定などされていません。しかし、私たちはすぐに単一の要因で相手のパーソナリティーや態度などを規定することを行いがちです。人間は動物と異なり、相手を丸ごと受け容れるということができず、「分類」(カテゴリー化)によって相手を認識せざるを得ないためです。この人は女かな男かな、この人は何人かな、この人はいくつくらいかな、こういった“周辺情報”がないと我われの認識スキーム(枠組み)が働かず、不安になるからです。
 対象を「分け」て、それに名前を付与してきたことは、確かに人類のみがなし得た大変な発明です。周知のように「分ける」と「分かる」は同一の語源を持つとされますが、実は分けただけでは何もわかっていません。命名しただけでは理解したことになりません。1つは「わかったつもりになっているだけ」だということ、2つめにあらゆる対象、事物は「分けきれない」(未だ命名され得ないものがたくさんある)、ということを私たちはよく認識しておくべきでしょう。無理やり分けると無理が生じますし、決めつけは暴力にもなります。人が単に人種とか性別とかに還元され決めつけられてしまったら、された側はたまったものではありません。他の人はそのラベルのまなざしで相手を見て思考を停止してしまい、貼られた側はそのラベルにそって振る舞うようになってしまいます。「女は女らしく」という世間の期待する規範がその人を女らしく振る舞うようにし向け、そのように振る舞えば人びとは「やっぱり女は女らしい」と納得する、そういう構造があります。

3.メディアは「志」でもあるが、まずは「商売」である

 メディア情報は、個人であれ組織であれ、誰かが何らかの意図や目的を持って、様ざまに生じている現実の事象の中から採り上げるべき事象をチョイスし、文章、イラストや写真、映像や音声などの表現手段を使い、それを見やすく・聞きやすく・理解しやすいように整理し、紙面や画面、プレーヤー上などで再生されたものです。これらの一連の流れを、企画→取材→制作→編集→送出、といったプロセスとして一般化できるでしょう。さらに、送出されたものを受け取る私たちの側の眼や耳を使った認知行為、そしてさらにそれを理解するという認識行為(あるいは無理解や誤解)も、この一連のプロセスの最後に位置づけることができる(送出→認知→認識)かと思います。
ここで忘れてはならないことは、メディア情報が私たちのところに届くまでに、様ざまな人たちや制度が関与しているということです。したがって当初の事象は、そのプロセスの中で、好むと好まざるとにかかわらず、大きく変わってしまっている可能性があります。取材をするかしないか、それを採り上げるか採り上げないか、締め切りに間に合うか間に合わないか、そして取材をする人の立ち位置(視点、立場、発言内容や記事内容)、演出などによって私たちに届けられるパッケージ化されたメディア情報は180度変化し、全く違った印象を視聴者・読者・ユーザーにもたらします。
 そもそもメディア、中でもマス・メディアや多くのインターネットなどハイパーメディアは、決してボランティアで運営されているわけではなく、従業員を使役し、生産活動を行う、会社組織です。NHKは人びとの視聴料収入、民間放送はCM収入、新聞や雑誌は販売収入と広告収入、書籍やCDやDVD、ゲームソフトは販売収入、携帯電話やインターネットのサイトはバナー広告収入などからそれぞれ成り立っています。
 そしてそれらの収入から、番組や記事の制作経費(キムタクのギャラから機材のレンタル料、記者のハイヤー代、下請けへの丸投げ費用まで)、電波発信(もの凄いお金がかかります)や印刷・紙などの経費、また会社の維持費(水道代・電気代から、社屋の不動産賃貸料、税金まで)、人件費(年収1000万円を超える正社員から時給900円のアルバイト費用、受付の派遣社員給与まで)、さらに会社の「儲け」に至るまで、捻出し、支払わなければならないのです。
 この構造や事情は、正規従業員のほか嘱託・アルバイト・派遣社員、俳優や小説家やライターなど外部の人材を多く抱える全国レベルのテレビ局・新聞社・出版社など大規模メディアから、地方局や地方紙や通常の出版社中規模のメディア会社、そして数名でやりくりしている小出版社など、いずれもほぼ同じと言っていいでしょう。

4.メディアには様ざまな規則と有力者の“思惑”がからんでいる

 メディアは経済活動を行っている企業であることと同時に、それが言論・表現という、すぐれて人びとの意識・行動や知識教育、また経済や政治、文化などに広くかかわり影響する公共的性格を有しているということから、法律にのっとって運用されているということにも留意しておかなければなりません。ただし、新聞・出版事業については商法や流通面などでは法規にのっとらなければいけませんが、設立にあたっての公的な届け出制度、また言論内容についての法規、たとえば新聞法とか出版法というものはありません。
 ですが、放送や通信はその資源が稀少なものでありかつ社会的影響力の強い公共的なものである、つまりいい加減な人や会社にはまかせられないとの理由から、放送法、電波法、電気通信事業法など法律による規制が存在し、また申請による免許制が採られています。たとえば放送局は開業する際に総務省による審査があるほか(その長は総務大臣となります)、免許の更改制があり、放送法に違反した場合は公権力による免許停止などの措置が採られ得るということになります。
 したがってそのため、所轄の総務省はじめ関係省庁、大臣、関係する官僚、NHK予算の国会承認を行う国会議員、不正をあばかれたくない国会議員、「影響力」を行使する有力者、そして先に言ったCMや広告を出す(お金を払ってメディアに載せる)広告主(スポンサー)のほか、広告主の株主、そういった様ざまな人たちや組織にメディアは八方気を遣わねばならなくなりました。中でも政治家と広告主の2つが最も大きなメディアの殺傷与奪の権限を握る権力となっている構造があります。そのため、テレビ番組だけでなく、新聞記事や雑誌記事などが、政治家や広告主の意向や圧力によって改変されたり、日の目を見なかったり、またたとえ圧力がなくともメディア側があらかじめ自主規制したり忖度(そんたく、他人の心を推し量ること)することが、しばしば生じ得るわけです。
 こうなると、私たち視聴者・読者・ユーザー等(オーディエンス)が最終的に受け取っているメディア情報は、その正確性や客観性について留保して接しないといけないことになってきます。この問題は、やはり後述するメディア・リテラシーの必要性とかかわってくることになるでしょう。また、メディアが公権力などの圧力に屈することやいたずらに自主規制することは、憲法に保証された表現の自由がそこなわれることにつながることは言うまでもありません。