第1回 なぜいまワーク・ライフ・バランスなのか

1.導入の背景

 いま、政府・企業・民間人からの、これまでつかったことのないカタカナの「ワーク・ライフ・バランス」(以下Work Life Balance のをWLBと略す)の大合唱が聞こえる。一体その背景はなにか?この点を考えるには、社会・経済が大きく変化するなかで、労働力への影響がこれまで経験したことのない領域にはいったという理解が必要である。このシリーズでは3回にわけてこの現象を解説していく。第1回目は総論として、導入の背景と日本での対応を主にみていこう。

1-1.アメリカのケース

アメリカ合衆国では、40年以上も前の1964年に、公民権法(雇用平等法)が制定され、性、年齢、人種などあらゆる差別が禁止された。こうした法的支援もあり、働く女性が急増した1980年代初期から、ワーキング・マザー向けの、ワーク・ファミリー・バランス(仕事と家庭の両立支援)がはじまった。またWorking Motherという雑誌が出版され現在もなお支持をえている(http://www.workingmother.com/)。この雑誌では女性が働くうえで高い評価を得たべスト職場を、1985年から毎年公表している。しかしスタートは働く母親、つまり女性だけが対象であった。ところが90年代にはいると、さらに独身者、子どものいない男女も含めてすべての労働者の働き方のバランスへと関心がシフトしてきた。それがワーク・ライフ・バランスの源流である。

1-2.イギリスのケース

 イギリスのWLB導入は、より一層、企業側の視点から起きたといえる。文末の参考文献にある労働政策研究・研修機構(2006)によると、近隣欧州諸国の中で、イギリスは特に労働時間が長かった。そのうえ労働生産性が低かった。企業がその理由をつぶさに調査してみるとイギリスの労働者は長時間労働であることが、健康を損ね、生産性を低下させ、家族へも悪影響がでていた。なにより企業利潤は低下していた。同時に女性の労働増加も進んでいたので、柔軟な働き方に向けた見直しが必要という発想の転換になった。雇用主はよい人材を集めて、労働生産性を高め、高利潤のために、労働環境の改善が必須であったのである。

1-3.日本のケース

 日本では労働時間がイギリスよりも長く、とくに男性の労働時間が長い。従来から日本的労使慣行が作用しており、雇用における男女平等の思想は当初からなかった。1975年第1回国際女性年において女性の社会的地位向上のため、国連中心で国際的に女性の地位を高めるための第1歩として国連「性差別撤廃条約」の批准が運動のきっかけになった。1985年、日本にも男女雇用均等法が成立したが、当時はまだ実態の伴わない形式的なものであった。
 厚生労働省は1999年から、ファミリー・フレンドリー制度を導入した。それは家族的責任を有する労働者がその能力や経験を活かすことのできる環境整備に積極的に行っている企業等を、「ファミリー・フレンドリー企業」として表彰するものだった。しかしスタートは女性が主たる評価の対象であった。男女を含めた家族の労働と仕事の両立支援であるWLBへの転換は、同省の2003年成立「次世代育成支援対策推進法」によってである。
 この法律は、次の世代を担う子どもたちが健やかに生まれ育つ環境をつくるために、国、地方公共団体、事業主、国民が担う責務を明らかにし、10年間をかけて集中的かつ計画的に取り組むことを狙ったものである。特に事業主には具体的に計画マニュアル策定をもとめており、これにより、日本にもWLBが広く普及することになった。
 とくに政府は省庁間の垣根を越えてこのWLBへの連携取り組みに熱心であるのは、日本の経済を支える人口減少に歯止めがかからないことが根底にある。国策の土台である人口減少は基本的な税収確保を弱体化させ、年金基盤を揺るがし、なによりも経済の根幹である労働力減少に直結するからである。ワーク・ライフ・バランスと経済成長との間にはプラスの関係がある、という前提にたった政策ということになる。

2.合計特殊出生率の低下と経済主体の関係

 では各国では出生率と経済成長との間に、このようなはっきりした関係があるのか。政府にとっては明らかに人口減少は税収にマイナスであると想定してWLB政策を支援していると思われる。たしかに国力の低下は良質の労働力減少によってもたらされ、労働力の減少は、国力の低下に結びつく。
 では企業の思惑はどうか。グローバル経済化の中で競争力は一段と強化される。そこで良質の若い人材確保はさらに必要になる。企業を通じた成長に政府も一段と期待する。いわゆる{新自由主義}【D.ハーヴェイ】の政治経済イデオロギーの強化である。
 他方、家計では経済停滞によって家計防衛的行為をとらざるをえないから、理想の子ども数より現実の子ども数はより少なくなる。こうしたときに政府と企業が、女性だけが家族責任を負うようなファミリー・フレンドリー制度から一転して、家庭内の男性と女性を対象にした仕事、育児、介護、家事労働のバランス支援に転換したことは強い支援と感じるであろう。だが実際は財政赤字で政府支援に多くを期待できないから、もっぱら企業支援に関心が集中している。各国の出生率と成長率の関係は、こうした政府と企業の支援によって微妙なバランスのうえに達成された結果である。

図1

参考文献

  • 篠塚英子・花見忠『雇用均等時代の経営と労働』統計選書、1987年
  • 藤本茂『米国雇用平等法の理念と法理』かもがわ出版、2007年
  • 独立行政法人・労働政策研究・研修機構『Business Labor Trend』「特集:欧米の動向とわが国への示唆」、2006年1月号
  • D.ハーヴェイ・渡辺浩『真自由主義-その歴史的展開と現在』作品社、2007年