第3回 男らしさと、弱さの語れなさ。そして非モテ研のこれから
1.非モテ問題の重さ
近年、国内外を問わず、「恋人・配偶者の不在」を一つの動機とした男性による殺傷事件が相次いでいる。特に欧米では「女性と関係を持ちたいが、社会環境によってそれを阻まれ、不本意ながら独身を強いられている」という思想を持った男性による、無差別銃乱射事件などが2009年から2021年までに計11件発生している(※1)。
今年3月には、東京の商業施設にて女性店員が、元交際相手の男に刃物で襲われ死亡し、男もその場で自殺する事件が起こっている。男は過去に被害者と交際関係にあったが、破局。その後付きまとい等がはじまり、最後には犯行に及んだようだ。
一連の事件において、いずれも犯人が自身を『非モテ』だと名乗っていたわけではない。最後の事件に関しては、犯人は一度、被害者とパートナー関係にあった。が、関係の破局を迎えても、諦めきれず相手への付きまといや、殺害へ至る執着の強さには『女神化』的な心性が関係しているようにも見える。
勿論、「非モテは犯罪者予備軍である」ということを言いたい訳ではない。それぞれの事件に至る背景は複合的であり、その要因が全て非モテにあると言い切るのは不合理だろう。ただ、要因の一つとして、本コラムで扱ってきた『非モテ的苦悩』が通底しているのもまた確かだ。
これらの事件を紹介したのは、非モテ問題について、ある種の”重さ”を感じて欲しいと思ったからだ。
(※1)彼らはインターネットコミュニティを中心に活動し、自身のことを『インセル(Involuntary Celibate = 不本意な禁欲主義者)』と呼称している。
2.世間のまなざしとのギャップ
非モテ問題は、例えば人格と結びつけられやすい。「30歳まで恋人の居たことがない男は人格に問題がある」などと語られることがよくあるが、人によってそれは著しく精神を追い詰める要因となり得るだろう(※2)。
同時に非モテ問題は、好奇の目に曝されやすくもある。過去、非モテ研にとある週刊誌から「こじらせた非モテ男の心の闇」という題目で取材の依頼がきたことがある。「非モテで苦しんでいる男のことを面白がりたい」というような、意地が悪い世間のまなざしを感じる。
このように非モテ問題は、当人にとって深刻な悩みなのに、周囲からはからかいの対象にされるような、ギャップが起こりやすい構造がある。ギャップがあるからこそ、その悩みは周囲に話しにくくなるし、自分ひとりで抱え込んだ結果、極端な考えに走ったりもしがちだ。
非モテ問題をこじらせないためには、やっぱり悩みを1人で抱え込まず、それを語り合える場や相手を見つけることが大事だろう。本当は全国各地にそれぞれ非モテ研があって、非モテ問題を抱えている人が誰でも気軽に参加できるようになればいいと思う。少なくとも僕は依頼されれば全国どこへでも訪問し、非モテ研を開催する準備がある。
(※2)もちろん、「30歳まで恋人の居たことがない男は人格に問題がある」という主張を裏付ける客観的なデータや根拠はどこにもない。
3.自分の苦しみを語る言葉を紡ぐこと
哲学研究者の小松原織香さんは、2008年に『承認欲求の牢獄から抜け出すために』という文章を執筆している(※3)。女性ジェンダーの立場から、男性の非モテ意識へある種シンパシーを語る内容だ。小松原さんは、自分が女性として感じてきた生きづらさが、非モテを自認する男性の苦しさと共通する部分があったと書いている。
「インターネット上で、自らを「非モテ」と称する男性の存在を初めて知ったとき、驚いた。彼らは「女はイケ面とばかり付き合う。だから、不細工なオレはモテない」と言う。それは、私が長く抱えてきた「女の恨み辛み」にそっくりだったのである」
「それは、私自身が持っている欲求の問題だ。男性が「そのままのキミでいいんだよ」と言ってくれれば、私は幸せになれるのではないか、ともがいてきた。「男に認められたい、求められたい」と呪文を繰り返した。(中略)私にとっても肥大した承認欲求は、言葉にするとあまりにも陳腐である。そのため、他人の前では口にしづらいものだった」
小松原さんはこの苦しみを和らげることは、異性からの承認では成し遂げられないと言う。そして本当に必要なのは、他者の言葉を借りながら、自分の苦しみを語る言葉を紡ぐこと。その時、過去にウーマンリブやフェミニズムが紡いで来た数々の「女としての苦しみ」を語る言葉が役に立ったと書いている。
「私は、男性への依存から抜け出す手がかりとして、語るための言葉を求めた。20年も30年も経っているのに、私の男性に対する承認欲求への渇望は、過去の女性たちが苛まされたものと変わらない。だが、ウーマンリブやフェミニズムの功績は大きい。「女としての苦しみ」を語る言葉は豊潤に蓄積されている」
「私は、自分の物語をウーマンリブやフェミニズムの言葉を借りて編み上げる中で、憎まず、恨まず、隣の人にやさしくできる自分でいようと、祈るような気持ちを持つようになった」
「おそらく、女性には非モテ男性の苦悩は救えない。私が女性として非モテ男性にできることは、苦悩を嘲笑することなく、敬意を払うことだけである。これから非モテを名乗る男性は、どのような言葉を手にしていくのだろうか」
男たちもまた、自分の苦しみを語る言葉を紡いでいかなければならない。非モテ研の活動10年は、この文章が語っているものを貫くための実践だったとも言える。
一方で、今回の連載で書いてきたように、男性ジェンダーは自身の弱い感情や、精神的な脆さを表現することを阻む構造を持っている。表現されない想いや感情は、無意識の闇へ沈み込み、自覚することも難しくなる。これは男性ジェンダーが、自分を主語として、生きづらさを語るための語彙が少ないことを意味している。苦しみを表現することを阻まれてきたからこそ、そもそもの蓄積が貧困なのだ。女性ジェンダーとはまた性質の異なる課題を抱えていると言えるだろう。
ただ非モテ研の場は、この男性ジェンダー的構造を突破する力を持っているとも感じる。やはり自分と似た苦悩を持った別の男性が、その場に居てくれるということは大きい。誰かがぽろっと自身の弱さを語った時、普段の日常で触れている競争的な男らしさから離れて、ついこちらの弱さも開示してしまうようなことがよく起こる。意図せざる結果、無意識に沈めたはずの自分の想いがふと零れる。そんな現象を誘発する力が、語り合いの場にはあるのだ。
苦悩を語るための男たちの言葉は、まだまだ語彙に乏しい。言葉を紡ぎ、蓄積するために、今後も非モテ研の活動は重要だ。
(※3)小松原織香 承認欲求の牢獄から抜け出すためにへのリンク(外部リンク)![]()
4.結びに代えて
最後に個人的なことを書いて終わりにしたい。僕には今、お付き合いをしているパートナーがいる。彼女と付き合い始めたのは、約8カ月ほど前になる。多分、僕らはよいパートナーシップを築けているのだと思う。やや気まずい関係になっちゃった時期もあったが、その度にお互い話し合うことを通して、関係性のモヤモヤを解消することができた(と、少なくとも僕は思っている)。
実は僕は、これまでにパートナーが居たことはない。彼女は僕にとって初めて付き合った人なのだ。
どうやら彼女は、僕がこれまで自分自身と向き合い、自分の言葉を紡いできた人間であるということに魅力を感じてくれているようだ。大変ありがたい。
「だから非モテ研に参加すれば、恋人ができるのだ」ということを言いたいわけではない。が、自分の苦しみを言葉にしていくこと、自分と向き合うこと、自分の気持ちを尊重すること。それらのことを通して、僕は相手と向き合い、関係を大切にする力を身に着けていったように思う。一見それらは遠回りなように見えて、結局全部必要な道のりだった。
先のことがどうなるかは分からないけど、僕は彼女との関係をこれからも大切にしていきたい。
ただ、誰かと付き合ったり、愛し合ったりということは、結局偶然の産物でしかないような気もする。僕のパートナーは、少なくとも僕と出会うまでは「きっとこの先、自分は誰とも付き合わず、1人で生きていくんだろうな」と思っていたそうだ。
伴侶が居ようと居まいと、人は自分の人生を生きていかなければならない。それに人生を豊かにしてくれる人間関係というのは、パートナーシップだけには限らないだろう。また、先に触れた小松原さんが書いているように、個人が抱える生きづらさや、苦悩、孤独の問題は、恋人が居ればそれで全部まるっと解消される、ということでもない。
苦悩が強まっている時、誰かとその苦悩について語り合うことは、少し気持ちをほぐしてくれる。でも、別にそれは必ずしも言語的な活動でなくてもいいとも思う。例えば趣味のサークルとかでもいい。他者と交流する時間や空間がきっと大切だ。閉塞した自己へ、違う流れの風が吹き込むような時間。競争的にならず、その時々の自分のあり方を否定されないような空間。
非モテ研に限らず、そんな余裕のある場所が、沢山あったらいいなと思う。
