第2回 性暴力の影響
性暴力被害を受けると、心身にさまざまな影響が現れます。「トラウマ」や「PTSD」といった言葉を聞いたことがある人も多いことでしょう。ひとつひとつ見ていきましょう。
1.トラウマとは
トラウマとは、長く影響が残る「心の大怪我」のことを指します。性暴力被害はトラウマになりやすく、うつ病やパニック障害、依存症、PTSD(心的外傷後ストレス障害)など、いろいろな精神疾患のリスクが高まります。
トラウマは「冷凍保存記憶」と比喩的に表現されることもあります。いわば、フリーズドライのインスタントコーヒーや味噌汁のように、解凍されると、フレッシュな記憶が感情や身体反応を伴って再現されるというものです。トラウマになった場面を何度も何度も生々しく再体験しなければならないという苦痛を伴います。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった五感の記憶は言葉では表しにくいため、うまく伝えられず、理解が得られない苦しみを抱えるといったことも起こります。
2.PTSDとは
PTSDとは、戦争や災害、事件、事故、レイプなど、極めて脅威的で恐ろしい衝撃的な出来事のあと、その体験の記憶が自分の意思とは関係なく生々しく思い出されるといった症状が1か月以上持続するものです。ベトナム戦争の帰還兵にPTSDが頻発し、日本では、1995年の阪神・淡路大震災の後に注目されるようになりました。
レイプは「魂の殺人」と言われますが、実際に、殺人事件に巻き込まれたのと同じような症状を抱えることが少なくありません。
3.PTSDの症状
PTSDには、大きく3つの症状があると言われています。WHOの国際疾病分類ICD-11で定義されている「侵入(再体験)」「回避」「持続的な脅威感(過覚醒)」という症状について、見ていきましょう。
侵入(再体験)
これは、フラッシュバックなど、トラウマとなった場面が生々しく、あたかも「今この瞬間に起こっているかのように」突然思い出されることです。トラウマを思い出すトリガー(引き金)は日常のいたるところに潜んでいます。「加害者に似た後姿を見かけた」とか「加害者が使っていた香水のにおいがした」といったことから、被害を受けた時の気温や湿度、その時目に入っていた「何か」に似たものがあった、など、本人が自覚していないにもかかわらず、無意識に被害のことを思い出して、パニック発作や過呼吸が起こることもあります。悪夢を見るというのも、侵入症状のひとつです。日常生活の中に、前触れなくトラウマ場面に「侵入」されるような感覚のことを指します
回避
トラウマ記憶が想起されるのを防ぐために特定の場所や人を避けたり、自分の心を麻痺させたりします。そうした「対処」は、意識的にも無意識的にも行われます。しかし、それが長引くと、自分が何を感じているのかわからなくなっていき、生きている実感や、楽しいと思う心までが損なわれていきます。いつどこでフラッシュバックが起こるかわからないので、外出が怖くなったり、電車に乗れなくなったりする人もいます。
持続的な脅威感(過覚醒)
警戒心が強くなり常に緊張して身構えている状態が続くといった症状です。常に臨戦態勢で、安心してくつろぐことができなくなります。夜もよく眠れなくなります。予測していない大きな音や光、接触などに、過剰に反応してしまう(驚愕反応)といったことも起こります。
4.トラウマ記憶は解離をともなう
トラウマ関連記憶は「解離」を伴うことが少なくありません。解離とは、心が処理できない場面に遭遇した時、体験そのものを一時的に「切り離す」反応です。
性暴力被害のお話を聴いていると、性暴力を受けている自分を天井から見ているように記憶していると話す人が少なくありません。苦痛から自分の心を守るために、心を体から切り離すのです。
私たちは危機に直面した時、咄嗟に「闘う(Fight)」か「逃げる(Flight)」かの選択をします。しかし、どちらも不可能だと思ったとき、「心身を凍結させる(Freeze)」という反応を取ります。これは、神経生理学的にも確認されている「防衛反応」のひとつです。フラッシュバックが起こった時に、事件当時の解離の状態になってしまうといったことも起こります。
面接室でトラウマについて語っている時に解離が起こることもあります。そんな時、私たちカウンセラーは、「今、ここ」に戻って来ていただくサポートをします。手をグーパーしてもらったり、その場で足踏みしてもらったり、水を飲んでもらったりすることで、今は安全で安心な場であることを思い出してもらいます。「フラッシュバックは安全だと思っている場所で起きやすい」とお伝えすると安心されることが多いです。
5.複雑性PTSDとは
PTSDとは、単発または短期間の、生死にかかわる恐怖体験によるものを指します。「正常な自分に起こった、異常な体験」という認識があるのが特徴です。一方、逃れることが困難、もしくは不可能な状態で、長期間、反復的に、脅威や恐怖をもたらす出来事にさらされ続けた場合は、「その状態が、日常」になってしまい、トラウマ(心的外傷)による影響を自覚しにくくなります。例えば、配偶者やパートナーからの長期間に渡るDV被害や、小児期に虐待被害を受け続けた場合、「世界は安全ではない」といった価値観を持つようになるなど、人格や性格への影響も現れてきます。そのような状態は、「複雑性PTSD(Complex PTSD)」と呼ばれます。
WHOのICD-11では、PTSDの主要3症状に加え、「感情制御の困難」「否定的な自己概念」「対人関係の困難さ」が、複雑性PTSDの特徴とされています。
突然湧き上がる強い怒りに翻弄されたり、感情を制御できない自分への評価が下がったりすると、対人関係にも影響が出てきます。
6.再犠牲者化という症状
再犠牲者化(リエナクトメント)とは、トラウマ体験の「再演」を意味します。過去のトラウマを追体験するかのように、被害を受けた時と同じような状況に自ら身を置くことを指します。ただし、これは被害者の責任ではなく、トラウマによる無意識的な再現行動であり、臨床的には「再演症状」として理解されます。
それには色々な心理が影響しています。例えば「被害当時の自分は何もできなかったけれど、今の私なら適切に対処することができるのではないか」と無力感を払しょくしたい気持ちや、「あんな被害など、大したことはなかった」と思うために、同じような被害経験を重ねて、その中のひとつのエピソードにしようとしたり、逆に「自分はどうしようもない人間だ」と確認するために自分を傷つけようとする、などです。
特に、長期間に渡り暴力被害を受け続けた「複雑性PTSD」を抱える人にとっては、自分が傷つけられるというのは「なじみの感覚」であり、ある種の安心感さえ持ってしまいます。
親やパートナーは、自分のことを一番愛してほしい、大切にしてほしい相手です。特別な存在である人から暴力を受け続けると、愛情と暴力はセットだと認識するようになってしまいます。そのため、愛情を確認するために相手を怒らせて暴力を誘発しようとしたり、暴力的ではない人からの愛情は「何か裏があるのではないか」と疑ってしまったり、といったことが起こります。
しかし、度重なる暴力被害は自尊心を傷つけ、「愛してくれるはずの人から暴力を振るわれる私は、大切にされる価値がない」といった自分への否定的な思い込みを生み出し、回復を遠ざけてしまいます。
自分の生きづらさは「トラウマによる症状ではないか?」という視点を持つことが、回復につながる一歩になるかもしれません。
7.トラウマからの回復
トラウマからの回復は、トラウマになった出来事をなかったことにすることでも、思い出さなくなることでもありません。生々しく感じるトラウマ記憶を「過去の出来事」にしていくことです。思い出すと多少心はザワザワするものの、日常生活に支障をきたすことなく、やり過ごせるようになることです。
ジュディス・ハーマンの著書『心的外傷と回復』によると、トラウマからの回復には3つの段階があると言われています。
第1段階は、安全の確立
第2段階は、トラウマの記憶を語り、喪失を悼む
第3段階は、再び信頼やつながりを取り戻す
第1段階は、安全を確立する段階です。それには「セルフコントロール」の感覚を取り戻し「環境の安全性」を整えることで、安心・安全感を得ていきます。
セルフコントロールとは、睡眠や食欲、感情反応などを少しずつ整え、自己破壊的な行動を減らし、自分を傷つけず大切にできる感覚を取り戻すことです。
環境の安全性の確立とは、安心できる人間関係を築いたり、支援者と繋がるなどして、安全に生活できる状況を作ることを指します。経済的な安定や住環境の確保なども含まれます。
第2段階は、トラウマを想起し、トラウマによって失ったものを悼む段階です。安全な環境の中で、トラウマ体験を少しずつ語り、出来事の「物語」を再構成していきます。
トラウマを体験すると、「トラウマ以前/以後」が切り離されたように感じられることがあります。しかし、トラウマ以前の自分が築いてきたものが消えたわけではありません。語りの中で、それらが今も自分の中に息づいていることに気づけるようになります。喪ったものを悼み、出来事を「過去のもの」として位置づけていく作業が、この段階で行われます。
第3段階は、自分や他者への信頼感を取り戻し、つながりを再確認する段階です。社会との関わりを再構築し、人生の希望や意欲を取り戻していきます。
これらの3段階を経るトラウマからの回復は、右肩上がりに進んでいくわけではありません。
安定してきたかと思っていたのに、また落ち込んで誰とも会いたくなくなる、といった気持ちのアップダウンを経験する人がほとんどです。回復は、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、らせん状に進んでいきます。ある時、ふと振り返ると「あの頃よりは、ずいぶん回復している」と気づけるようになる、といった形で進んでいきます。
トラウマは、自身の生活や存在を脅かすような深い苦痛をもたらしますが、私たちの中には「回復する力(レジリエンス)」が必ず備わっています。ですから、トラウマを負ったときには、あなたの傷つきを受け止めて寄り添い、あなたの中にある力を引き出し、回復への道のりを伴走してくれる専門家(臨床心理士、公認心理師、トラウマケア専門の医師や支援者など)を探してほしいと思います。必ず、どこかにいます。
トラウマになった出来事は、すでに終わっています。そこからどのように生き延びてきたのかに目を向けることは、あなた自身の力と回復の可能性を見出すことにつながります。
次回は、被害者を追いつめる二次被害の背景から、性暴力を許さない社会にするための方法について考えます
