第1回 (多様な性と性的マイノリティ ~朝ドラ『虎に翼』の考証をして~  連載第1回)

●性的マイノリティとマジョリティ
近年、「LGBT」や「性的マイノリティ」という言葉を新聞やテレビなどでも目にする機会が増えてきました。「性的マイノリティ」とは、何らかの意味で性のあり方が、社会の多数派(マジョリティ)とは異なる人々を指す総称です。
代表的なカテゴリーとして、以下のようなものがあります。
・レズビアン(L):女性同性愛者
・ゲイ(G):男性同性愛者
・バイセクシュアル(B):両性愛者
・トランスジェンダー(T):出生時に割り当てられた性別と性自認が異なる人
 「LGBT」は、これらのカテゴリーの頭文字をとったものです。この「LGBT」の語などで、性的マイノリティ全般を表すこともあります。実際にはこの他にも、
・アセクシュアル:他者に対する性的関心を持たない人
・クエスチョニング:自分の性のあり方が分からない、決められない、決めたくない人
なども性的マイノリティです。
トランスジェンダーに関して、「出生時に割り当てられた性別」という、少し聞き慣れない言葉が出てきました。普段あまり意識することはないかもしれませんが、私たちの性別は多くの場合、自分で選んだ性別ではありません。生まれた時に、お医者さんや看護師さん、助産師さんなどに「女の子ですよ」「男の子ですよ」と言われ、多くの場合は家族がそれを役所に届け出て、女性、男性という性別が割り当てられます。大多数の人は、その割り当てられた性別に――時には「この性別で損したな」などとは感じるかもしれませんが――大きな違和感なく、一生を過ごします。しかし数は少ないですが、自分の認識する性別(性自認、ジェンダー・アイデンティティ)と、この「出生時に割り当てられた性別」が異なる人が一定数存在します。こうした人びとをトランスジェンダーと呼びます。
ところで、性のあり方における多数派、つまり性的マジョリティは何と呼ぶのでしょうか。「普通」?「ノーマル」? それだと、まるで性的マイノリティが「普通ではない人」のように聞こえてしまいますね。そもそも、人を「普通」と「普通でない」に分ける行為そのものに、ある種の力(権力)が働いているとも言えそうです。
多くの人が属する「性的マジョリティ」にも名称があります。
・ヘテロセクシュアル(異性愛者)
・シスジェンダー(出生時に割り当てられた性別と性自認が一致している人)
先ほど挙げたレズビアン、ゲイなど「性的マイノリティ」を指す言葉は、かなり広く知られるようになってきました。一方、数が多いはずの「ヘテロセクシュアル」「シスジェンダー」は、まだまだ知られていないのが実情です。私がふだん大学で授業をしている時も、LGBTなど性的マイノリティに関する言葉は多くの学生が知っていますが、「ヘテロセクシュアル」「シスジェンダー」という語を知っている学生は少ないです。
ここにはやはり、非対称な関係性があると私は考えます。マイノリティは名付けられ、しるしづけられるのに(これを「有徴化」と言います)、マジョリティは「普通」であるとしてしるしづけられない(無徴化)。例えば、秘密が守られるとても安全な場で、互いに自分の性のあり方について話し合う空間があったとします。それぞれ「私はレズビアンです」「私はトランスジェンダー男性(出生時には女性と割り当てられたが、性自認は男性である人)です」といった具合に自己紹介している中で、マジョリティの人が「私は『普通』です」「『ノーマル』です」と言ったら、と想像してみてください。何だかおかしな空気になりますよね。ここで、「私はヘテロセクシュアルの、シスジェンダー女性です」といった風に言うことで、初めて少し対等な関係に近づけるのではないか。私はそんな風に考えています。

●性のグラデーション
 日本には戸籍制度がありますので、日本国籍を有する人は戸籍上の性別として女性・男性のいずれかに分けられます。しかし実際には、性のあり方はもっとずっと多様です。性を構成する要素としては、身体の性、性表現、性自認、性的指向の4つがよく用いられます。そしてこれらはいずれも女性・男性のどちらかにパキッと二分されるものではなく、連続的なもの、あるいはスペクトラム状のもので、グラデーションがあります。
 身体の性とは、その名の通り身体的な特徴により分けられる性のあり方です。例えば保健の授業などで「第二次性徴をむかえると、男性は背が高くなり、体毛が濃くなり、変声期を経て声が低くなって……」というように学んだ方もおられるでしょう。しかし実際にはこうした身体的特徴は個人差がかなり大きいです。身長の高い女性も、体毛の薄い男性も、声の高い男性も、たくさんいます。外性器や内性器、あるいは性染色体のあり方も、実際には様々であり、例えば典型的な男性の性器や女性の性器とは異なる人も一定数います。
 性表現とは、一言でいうと「見た目の性別」のことです。髪型や服装、メイク、アクセサリーなどのほか、仕草や言葉遣いを含むこともあります。これも典型的に女性的な見た目、男性的な見た目というのもありますが(そもそも何をもって女性的・男性的とするかは、時代や文化によって大きく異なりますが)、例えば最近の大学生の一般的な服装の多くは、男女どちらと分けられないユニセックスなものです。見た目の性別もグラデーションがあり、両端つまり典型的な女性・男性ではなく、その中間のどこかに位置する人が多いのが実際のところです。
 性自認は、ジェンダー・アイデンティティの訳語で、性同一性とも呼ばれます。自身の性をどのように認識しているかを指します。「心の性」といった表現が用いられることもありますが、私個人としてはこの表現はあまり正確ではないと感じています。というのも、「心の性」というと、「自分は男性だと思っている」「自分は女性だと思っている」のように、「思っている」といったニュアンスが入ることもあるためです。あなたの性別は?と尋ねられた場合、おそらくほとんどの人は「女性だと思います」「男性だと思います」とは答えず、「私は女性です」「男性です」などと答えることでしょう。その「私は女性です」「男性です」というのが、その人の性についてのアイデンティティ、すなわち性自認です。性自認が女性の人、男性の人もいれば、どちらでもないという人、そもそも性別を男女の二つに分ける二分法が自分にはしっくりこないという人など、これも様々なあり方が存在します。
 性的指向は、自身の性的な関心や欲求の対象となる性別のことです。これもグラデーションがあり、男性だけが好きな人、女性だけが好きな人もいれば、好きになれば性別は関係ないという人、基本的には男性が好きだけれど女性を好きになったこともある人、他者に性的な関心が向かないアセクシュアルの人など、性的指向のあり方も千差万別です。
 このように、性別と一言でいっても、その構成要素は身体の性、性表現、性自認、性的指向などがあり、またそれぞれがグラデーション状になっています。これらの組み合わせは人によって本当に多様であり、実際には人の数だけ性のあり方が存在するといっても過言ではないほどです。
一方、現在の日本社会には、性に関する2つの虚構(フィクション)が存在しています。一つは「人の性別は男・女の2つのみで、みんな出生時に割り当てられた性別のまま生きる」という「性別二分法」。もう一つは「人はみんな、異性を好きになる」という「異性愛規範」です。
 ここまで見てきた通り、実際には性のあり方は多様であり、性別二分法と異性愛規範は現実とは異なる虚構、フィクションです。しかし日本の法律や制度は、これらのフィクションを前提に作られているため、その枠に収まらない性的マイノリティの権利が十分に保障されていないのです。また、こうしたフィクションが日本社会を覆い、法や制度の前提となっていることは、性的マイノリティに対する差別・偏見の原因にもなっています。