人間国宝・野村万作インタビュー

野村万作さん
狂言「栗燒」太郎冠者・野村万作(撮影・政川慎治)

vol.121特集1

MNEWS vol.121では、人間国宝の狂言師 野村万作さんにインタビューさせていただきました。WEB版では、紙面に掲載しきれなかった質問も含めて全文を掲載します。

「狂言」とはどんな芸能ですか?

日本の伝統的な演劇、室町時代の普通の劇と考えたらいいですね。内容は喜劇的なものが中心です。次の日の生活の糧になるような「笑い」が多いです。ただ、能と一緒に育ったから、様式とか型とか約束事があり、敷居が高いと思われることがよくあります。しかし、狂言は現実的な生活感のある芝居です。台詞と仕草で、日常生活の人間の色んな感情を描く普通の劇。分かりやすいはずです。

狂言師になる覚悟を決められたのは、いつ頃ですか?

狂言の家に生まれましたから、子どもの時は無理矢理やらされますよね。でもご褒美がもらえるので、一生懸命まずおじいさんに習いました。父に習うようになって稽古が厳しくなりますと、「あんまりやりたくないな」という時期もありました。旧制の中学校、終戦後すぐの頃です。友達の影響もあって、父が見せてくれなかった歌舞伎や芝居、映画を見て歩きました。軽演劇という、浅草辺りでやっていた芝居もね。今(その当時)の人が見て分かる、楽しく見られる芝居に初めは魅力を感じましたが、段々と古典の方に興味が戻っていきました。

狂言は話が単純で、役者の演技力で表現していく面が非常に強い。自分の演技力ですべてのことを表すのは、厳しさでもあり魅力でもある。「狂言はやり甲斐があるものなんだ」と思うようになりました。父に「やっぱり狂言をやっていきたい」と言ってからは、一生懸命に習いました。

インタビューの様子

それで、大学1年生の時にご自身で狂言の研究会をつくられたのですか?

「狂言師になる」という宣言です。3、4人の仲間を教えることから始めて、学園祭で狂言を演じることをしだしたんですね。

大変な行動力です。ご自身で研究会をつくるなんて自由な印象を受けますが…。

狂言があまり隆盛じゃなく疲弊していた時期ですので、父も厳しくは育てたけれども、自由を与えてくれてもいました。私の家は戦災にあい、家が焼けてしまった。そのショックが父にもありましたし、自信喪失の時期があったのではないでしょうか。だからこの頃からは、自分で積極的に動きました。

狂言が「今」のように隆盛になった流れと、万作さんの狂言の人生の歩みが重なっているように感じます。

戦後に若手だった人が、みんな一緒に努力したんです。僕のやったことでいえば「伝統芸術の会」です。新劇も歌舞伎も能狂言の人も、研究者も作家も参加して、色んな人が演劇を中心に「伝統」というものを考えよう、見直そうという組織でした。山本安英さんや作家の木下順二さんがいらしていた会合にしょっちゅう行きました。新劇の人は伝統的な演劇の演技を学ぼうとなさったし、僕らは新劇の作品を狂言でやればどうなるか試みたりした。木下順二作品にも出ました。新しい実験がこの会から生まれていった。色んな方と交流するなかで狂言を見直し、今に通じるものだと自信を持つようになった。それが日本でのこと。もう一つは、海外で公演し、その反響から自信を持てたことです。

海外での公演は、どのような経緯で始まったのですか?

シアトルのワシントン大学のリチャード・マッキンノン先生が、日本に来て僕の元で、狂言の実技を学んだんです。それでワシントン大学に僕らを呼んでくれて、学生たちに狂言を習わせた。アメリカに初めて行った時のことです。

昭和38年、1年近くシアトルに滞在されています。

ワシントン大学にアジア芸術センターがつくられて、フォード財団の援助で色んな芸術家が日本からワシントン大学に行ったんです。お琴、版画、陶芸家、狂言師。すごい交流ができました。この機会がめぐってきたのはご縁ですね。そして、そこから色々に広がっていきました。

その後も海外での公演は続き、世界各地でされています。狂言師を志した頃、このような未来は想像できましたか?

いいえ。ずっと「狂言の地位の向上を」と考えていました。父に偉くなってもらうことによって、狂言の再評価をしてもらいたいと思っていました。僕は父を師匠としてすごく尊敬しておりました。人からは「父離れの遅いやつだ」なんて言われました。父の芸をある意味で離れて「自分」ということを考えるようになったのは、この頃やっとです。父が79歳で亡くなったので、その年齢を越したあたりから少し父離れをした感じです。

牛追いをする太郎冠者が主役の「六駄(きろくだ)」という狂言があります。雪の中を12頭の牛を追う場面は一種のマイムです。父がやると「12頭の牛が見えた」とか「大雪が降っている景色が感じられた」とか言われてね。狂言研究家で今最長老の方が、「いや~万作さんの木六駄の方がもうお父さんの上をいっているよ」ってお世辞を言ってくれると、嬉しくないことはないですね(笑)。目標にしてきているわけなので。

万作さんは大曲「釣狐」の挑戦を続けていらした。「狐役者」と言われるほどです。「釣狐」への思いをお聞かせください。

8月に国立能楽堂で「釣狐」をやります。装束(衣装)を着て面をつけてはもうできないのですが、紋付袴でやる素の演式で。これから体を準備していかなきゃいけない。

「釣狐」は飛んだり跳ねたりという動きに技術的な鋭さが必要な演目です。長年「釣狐」を追っかけて一生懸命掘り下げてやってきましたので、究極は衣装などなくても狐になれるという自負はある。だからこそ引き受けました。このままでも顔は多分狐に見えるであろうと信じています。自分の体の中に狐が入り込んでくるほど執着しておりました。

他の演目はいかがですか?

狂言は、太郎冠者という庶民的な家来の役に代表されるように、普通の人間の普通の感情を表しているところが多いので、「普通の人間をいちばん上手にやりたい」思いも強く持っています。一つひとつの役を好きになって、愛して、優しく役に入り込んで、それを見ている方に優しく訴えかける。優しさの演技とでもいいましょうか。そういうものを大事にしなくちゃいけないと思っています。

ご子息・萬斎さんのご活躍も多方面にわたっておられます。万作さんに似ていらっしゃいますね。

萬斎は本当に多方面ですから、僕の若い時代と段違いです。僕は新しい試みといっても現代劇ぐらい。一度だけコマーシャルに出たけれど(笑)。

その「違いのわかる男」のCMは、当時、大変な反響だったそうですね。

萬斎はテレビも映画もみんなやってますでしょ。狂言に興味を持つ人が増えて功績もあると思います。「新しいことをやるのは大いにやっていいけれども、古典狂言はあんまり演出しないでくれ」とは言っています。よくできているものは、なるべく素直に伝えていきたい。狂言はなんといっても、軽みと飄逸(ひょういつ)みっていうのかな。大切にしてほしいところです。

三重県生涯学習センターでは、子どもたちにすぐれた文化芸術との出会いを提供するプログラムがあります。その中には狂言もあり、狂言師の方に各学校に行っていただき、教科書に載っている「柿山伏」をやってもらっています。子どもたちには大反響です。万作先生も学校公演をされていましたか。

僕も若い頃は、学校公演をよくやりました。信州方面に行ったときには、とっても子どもたちが喜んで見てくれているなと思ったものです。今も、文化庁のプランで若手が学校へ公演にいっています。若手はワークショップも含めて、実際に見せることも色々やっています。

三重県の印象についてお聞かせください。

ついこの間、猿田彦神社で、「福の神」という狂言をやってきました。伊勢神宮にも行って、いい記念になりました。
「宮めぐり」という狂言があります。お伊勢参りがテーマで、内宮外宮、色んなところを見て歩き、最後には神楽を奉納して伊勢のお土産をもらって帰るというお話です。昨年、この曲を復曲・演出してやりました。五十鈴川や外宮の表現など色々工夫しました。ぜひ、伊勢で「宮めぐり」をやってみたいなと思っています。

(インタビュー・文 阿萬壱子)

野村万作

1931年生。狂言師。重要無形文化財各個指定保持者(人間国宝)、文化功労者。祖父・故初世野村萬斎及び父・故六世野村万蔵に師事。3歳で初舞台。早稲田大学文学部卒業。「万作の会」主宰。
国内外で狂言普及に貢献。ハワイ大・ワシントン大では客員教授を務める。狂言の技術の粋が尽くされる秘曲『釣狐』に長年取り組み、その演技で芸術祭大賞を受賞。その他、多数の受賞歴を持つ。

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