第2回 壮絶な暴力の果てにあるもの

 その小学3年生の女児は、2017年9月に沖縄県糸満市から千葉県野田市内に転校してきて1カ月半後、学校でのいじめアンケートに「お父さんにぼう力を受けています(略)先生、どうにかできませんか」と書き込み、翌日には柏児童相談所に一時保護された。
 父親は、娘への暴力を認めず、小学校や教育委員会や児相を恫喝し、娘に書かせた嘘の書類を提出した。2018年7月から父による児童虐待が再燃。女児は、9月に父親方祖父母宅に助けを求め、そこで暮らすようになる。だが、年末に両親の家に戻り、年が明けても登校せず、1月24日に亡くなった。父親は虐待される子どもの姿をカメラ付き携帯電話に残していた。そこには、女児に父親が浴びせる罵声や、大泣きする女児の姿、大便を手にして立つ姿。長時間スクワットをさせられたり、立たされたりしている様子が撮影されていた。
女児がSOS出したにもかかわらず、行政は守れなかった。

 母親は傷害幇助で起訴され、昨年6月に懲役2年6カ月執行猶予は保護観察付きで5年の判決が下っている。父親はこの3月19日に、傷害致死罪、強要罪などで懲役16年の判決が下った。
 この事件の前年3月には、目黒区で5歳の女児が父親の激しい暴力の末に亡くなり、大きな話題になった。幼女が亡くなった時、体に170以上のあざや傷跡があり、16.6キロはあった体重はわずか39日で、12.2キロまでに落ちていた。
 二つの事件は、密室化した家庭の中での父親のDV、つまり、妻への支配とコントロールが激しい状況にあり、その挙句に児童虐待死を引き起こした点でも注目された。家庭の中にいるもう一人の大人である妻が、子どもを守ることができない。むしろ、虐待親の行動を助長してしまう。その悲劇を私たちは目の当たりにした。
 法律の改正も含め社会が大きく動いた。2019年6月には、児童福祉法が改正され、親の体罰禁止や児童福祉司の増員などが決められた。
 二つの事件には類似点がいくつかあるように思う。どちらも再婚家庭であり、男親たちは「子ども」とはどういうものであるかを知らない。子どもは、自分の言うことを聞くものだと考えている。もしかしたら、彼ら自身が、父親の言うことをただ聞くだけの子ども時代を過ごしてきたのかもしれない。
 目黒事件の父親は養父だ。子どもが3歳の時にシングルマザーだった妻に出会い、一緒に生活を始めた。当初は優しい父親だったが、籍を入れた直後から、母親のしつけに対する説教が長くなった。子どもの歯磨きやプールでの顔の水付け、挨拶などを思い通りにやらせようとする。こういう子どもであって欲しいという強い願いがあり、子どもに強要した。
 野田市の事件は、実子だが、女児が生まれて間も無く、別居、離婚している。8年ぶりに女児に会い、一緒に暮らし始めている。
 どちらの父親も、家庭や子育てがうまくいっていないことを認めることができなかった。行政の介入が始まると、長距離を移動。あるいは行政と戦う。その上で、自分の思い通りの形に家族を整えようとした。そのために、妻をコントロールする。妻も、夫の暴力に屈したというだけではなく、夫の願いを実現しようとしていたところがある。家庭を壊してまで、子どもを守ることができない。
 この家族にとって、夫婦であること。家族であることがとても重要だったのではないか。家族であることを維持することに強くこだわる中で、現実を認知できなくなっていく。家族にこだわらなければ、これほど激しいコントロールも、支配も、暴力も起きなかった。家族規範はそれほど強い。

 もう一つの類似点は、夫の就労形態が不安定だったということだ。
 目黒区事件の養父は、東京の4年制の私立大学を卒業後、大手のIT会社に勤務をした。だが会社に不適応を起こし、最後の2年間は嘔吐をしながら通ったという。当時は、両親がいる札幌支社に勤めていたが退職。友達の紹介で一大歓楽街であるすすきのの飲食店に勤めた。さらに他の知り合いに誘われて、高松の飲食店に移動。養父は裁判でこの当時は、絶望していたと語っている。そこで女児の母親と出会った。家族は新しい希望、彼のアイデンティティだった。
 野田市の事件の父親は、アルバイトとパートの仕事を転々としていたようだ。妻とは、沖縄の会社で出会っている。2008年9月22日に心愛ちゃんを出産した。その後、妻へのDVが理由で、妻の両親に別れさせられた。2016年6月、母親が父親にメールをし、それをきっかけに父親は、それまでの仕事をやめて、沖縄に移動した。家族と暮らすことのほうが、仕事よりも重要だったのだ。2017年2月に再婚、6月に次女が生まれると、母親は再び精神不安定になり入院する。母親の実家とは行政を挟んでのトラブルとなり、沖縄中央児相も糸満市もこの家族の課題を知った。父親は、低体重で生まれた次女が退院すると、逃げるように二人の子どもを連れて野田市に移動した。この時も、仕事を放り出している。
 仕事によるアイデンティティはなく、家族だけが彼の価値、存在を支える。

 もう一つ、裁判での男たちの様子に共通点を見出したことがある。それは、実家の親との関係性だ。
 目黒区の事件の養父では、弁護人側の情状としてその実父が法廷に立ち、息子の更生を支えると証言をした。その父親を、34歳の養父は顔をクシャクシャにして体をよじるようにして見ていた。父に受け入れられたいという願いがあるのだと感じられた。
 野田市の事件の父親(41歳)の裁判では実母が法廷に立った。この父親は、法廷に入るたびに深々と10秒近く頭を下げ、礼儀正しく振る舞いながら、どのように無残な暴力や暴行が語られても、正面を向いて微動だにしなかった。だが、実母が証言している時には、顔を真っ赤にして畳んだタオルで顔を拭い、涙を流し、下を向いていた。やはり、親に認められ、受け入れられたいのだと感じさせられた。
 自分のために証言台に立った親の姿に強い安堵と喜びを寄せている。敢えて書けば、彼らが詫びるのは、暴力を振るい死に至らしめた子どもではなく、ましてや配偶者でもなく、また、国家権力でもなく、まず、親なのかもしれないと思わないではいられなかった。親が行動規範なのだ。
 どちらの事件も、子どもに向けられたのは、想像を絶するほどの壮絶な暴力だった。妻を強いコントロール下に置き、妻の助けを得て、家族としての体裁を取り続ける。
 目黒区の養父は、170の傷のうち、一部については語ったが、多くの場合記憶がないと語り、事件の全容を明かすことはなかった。野田市の父親は、携帯電話やPCの中に残した画像や妻、解剖医の証言など、明確な証拠があっても、自分が主体的に子どもに暴力を振るったとは言わなかった。女児が長時間のスクワットをやらされたり、立たされたりしたことに対しても、女児が自発的に行ったと強弁した。胸骨の骨折についても、非合理な説明を続けた。その上で「事実しか述べていない」と語り、自分の語っていることと矛盾した証言に関しては「皆、うそをついているということか」と問われ、「そういうことになります」と語った。
 傍聴席で見る限り、意図的に嘘をついているように見えなかった。そのまま答えれば明らかに不利になる証言を彼は続けた。ある偏りを抱えているのかもしれないと思わされた。彼は「自分が子どもを痛めつけた」と語ろうとしても、語れないのかもしれないとさえ感じさせられた。それを言葉にしてしまったら、彼の存在を支えるものが吹き飛ぶのかもしれないと思わされる危うさがあった。
 そこに起きていた現実を語るには、実は、この二人の男たちは自分の弱さを受け入れなければならないのではないか。自分が弱くても、世界は壊れないということを他者に教えられなければ難しい。
 「お前は子育てができない」「家族は作れない」と行政から、つまり公的に突きつけられたとき、彼は受け入れられなかった。周囲を脅してでも、それを否定したかった。自分のダメさ加減を証明する女児の存在に憎悪を募らせた。その挙句、子どもが亡くなった。
 安全な子育てのためには、ダメな親でも、生きていいのだということを知らねばならない。ともに子育てを担ってくれる人がいると知らなければならない。
 それを実現させるのは、実は行政の役割だ。完璧ではなく、たくさんの欠点を抱える親たちを支える力が、今、社会に求められている