劇評家・安住恭子さんに三重県文化会館で観劇した芝居のレビューを寄稿いただくコーナーです。

安住恭子プロフィール
演劇評論家。元読売新聞記者。現在は、中日新聞などに演劇評論を執筆。また、シアターコクーンで上演した『RASHOMON』(野村萬斎演出・主演)の脚本を担当したほか、『百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん』(天野天街作・演出)など、プロデュースも多数。著書に、『青空と迷宮――戯曲の中の北村想』、『「草枕」の那美と辛亥革命』など。同書で「和辻哲郎文化賞」受賞。名古屋市芸術奨励賞受賞。

「初級革命講座飛龍伝」(2024年5月5日・6日)

マキノノゾミ演出:マキノノゾミ

 5月5日、子供の日。この日、日本の現代劇に、<アングラ演劇>や<小劇場演劇>と呼ばれる新しい風を巻き起こし、70年代以降の演劇界を牽引した、唐十郎が亡くなった。その日私は、三重県文化会館小ホールで上演された、つかこうへい作の『初級革命講座飛龍伝』の舞台を見ていた。<つかチルドレン>を自称するマキノノゾミの演出である。その舞台を見ながら、なぜかしきりに唐十郎のことを思っていた。高速放射される銃弾の嵐のようなセリフを聞きながら、そしてそのつか一流のせりふを懐かしく思いながら、「唐さんも過剰なセリフの人だった。世界は全く違うけど、やはり二人は似ている」、なんて思っていた。そして、観劇後に唐十郎の死を知らされた。
 唐十郎は『特権的肉体論』を書くなど、言葉よりも身体、役者の肉体こそが演劇の要だと主張していた。にもかかわらず、舞台を見ている間中、華麗な言葉の嵐をあびるような印象があった。力強い身体性から発せられたからこそ、その言葉の数々は、より強く見る者に伝わってきたのだろう。「私は風です」と名乗る男が次の瞬間には、その<風>でなくなるために、父も母も兄も妹も殺したと叫ぶ。その飛躍力に満ちたせりふをあびているうちに、詩的陶酔に包まれてしまうのだ。

 つかこうへいの言葉は詩的ではない。どこまでも現実的な言葉だ。しかも相手を罵倒したり、ネチネチ長々と文句をたれたりする。だがそれを、役者たちがやはり高速射撃のように連射すると、その言葉のつぶてを嵐のようにあびた観客は、やはり演劇的陶酔に引き込まれてしまう。詩情ではなく、それらの言葉が発する熱量に圧倒されるからだ。異様なまでに豊かに噴き出し続ける言葉の奔流に、飲み込まれ、溺れそうになる。
 つかこうへいは、今から14年前の2010年に亡くなっている。そして、彼が演劇界で華々しく活躍したのは1982年までで、それ以後は小説家としての活動が目立った。1994年に東京北区に、<北区つかこうへい劇団>を設立したが、その劇団が東京を出ることはなかったため、地方では彼の舞台を見ることは少なくなった。そんなこともあり、現代ではつかこうへいの名は、少し忘れ去られていたように思う。なので、つかこうへいとはどのような劇作・演出家だったのか、について、少し説明が必要かと思う。

つかこうへいつかこうへい(c)斎藤一男スタジオ

 1948年生まれのつかこうへいは、早熟の天才であった。大学在学中から、平田満や風間杜夫らを役者に芝居を作り、同世代の圧倒的支持を受けて、唐らに次ぐ<アングラ演劇第二世代>の旗手として注目された。74年には、当時最年少の25歳で、岸田戯曲賞を受賞。そして、映画や小説にも進出し、圧倒的なつかブームをまき起こした。私は1979年に読売新聞に入社したが、小劇場演劇を見るようになったのは、81年からである。従って、つか自身が演出した舞台もほんのわずかしか見ていない。それでもその強烈な観劇体験は、今でも覚えている。ほとんど何もない舞台に立って、憑かれたように言葉を発し続ける俳優たちの、テンションの高い演技と、そこここにちりばめられた毒の効いた笑い、そして華やかなフィナーレと、何から何まで演劇の面白さに満ちていたからだ。

 そのつか演劇の特徴は4つあると思う。まず第一は、彼の戯曲が「口立て」で作られたということだ。「口立て」というのは、稽古場でつかがせりふを言い、それを役者が瞬時に覚えて言うという手法だ。同じ内容でも、その時の役者たちの体調や状況に合わせて、どんどん変わっていったらしい。それは稽古の間だけでなく、本番が始まってからも続けられ、初日と楽日では内容そのものも大きく変わったという。だから当時のつかファンは、その両方を見るのも楽しみにしていたと伝えられる。事実、今回見た『初級革命講座飛龍伝』は、私が読んでいた新潮文庫版とは、冒頭から全く違っていて驚かされた。私は『飛龍伝』を初めて見るので、あらかじめ読んでおこうと思ったのだ。だから面食らった。そして、図書館で調べてみると、この戯曲は5回活字になっているが、それが全部違っていて笑ってしまった。新潮文庫版が最も古く、今回上演されたのは、1988年出版の『つかこうへい作品集2』(白水社)に掲載されたものだ。このような手法は、つか以前も以後もない。つか独特のものだ。

  第二の特徴は、登場人物たちが「演技」する者として描かれるということだ。彼の代表作『熱海殺人事件』が、大山金太郎をこの事件にふさわしい殺人犯に仕上げるため、刑事たちがよってたかって訓練する話だったように、まっとうな演技こそがその人の「生」であるという主張だ。だからせりふが過剰になる。虚を実に正当化するため、たくさんたくさん語ることになるからだ。

 三番目は、そのねじれた「生」の姿への哄笑だ。こんなにも人間は滑稽だとつきつける。そこに毒のある笑いが生まれる。しかしその笑いの裏には、こんな風にしか生きられない人間への苦衷の涙がある。滑稽と悲惨の同居である。そして最後に、彼の作品には常に、登場人物たちの間にある階層の違いという、関係性の問題を見つめる視線がひそんでいる。そこには当然闘争が生まれる。互いの底に憎しみがあるからだ。しかし当然のようにつかは、その憎しみの裏に愛があることを描く。愛と憎の同居である。 

舞台写真犀の角公演(長野)舞台写真
撮影:安徳希仁

 今回の『初級革命講座飛龍伝』の舞台もまた、それらのことをきれいに踏まえていた。まさにセオリー通りの舞台であった。1960年代の<安保反対闘争>をめぐる、革命家と機動隊員の話である。といってもその当時のドラマではなく、それから二十年後の80年代の二人の話だ。革命家だった熊田は、闘争時に機動隊にたたきのめされた時の怪我がもとで、寝たきりになっている。その世話をしているのは、息子の嫁だ。息子は革命家として育てたことで、今はアラブ辺りに行っているらしい。熊田は、<飛龍>と名づけた石を投げることで、伝説の革命家だった。その栄光の過去を唯一のよりどころに、毎日嫁にその自分にふさわしい石を探させ、それを売ることで二人の暮らしを立てているのだ。そこへ、かつての闘争相手だった機動隊員の山崎がやってくる。山崎も、熊田の石によって傷つき、仲間と供に長年入院していたらしい。その山崎は、今の熊田の姿を罵倒しつつ、今年の新たな闘争集会に参加すべきだとあおるのだ。

 概ね、そんな二人の話である。熊田と山崎には、政治的な対立だけでなく、大学生というエリート的立場と、田舎の高卒という、階層的対立がある。熊田は山崎を「百姓!」とののしり、山崎はその劣等感をバネに憎しみを燃やしていたのだ。そしてその憎しみの裏に愛があったことが、次第に明らかになる。二人とも、その闘争に明け暮れた日々は、何よりも輝かしい瞬間であった。山崎が新たな闘争への参加をあおるのは、その瞬間を取り戻したいからだ。熊田のまなざしの向こうにも、常にその瞬間の自分の姿があり、その姿は機動隊員山崎があってこそと認識している。憎は愛と共にある。
 一方、実は熊田は、その闘争の最中に隊列から逃げたことが、嫁によって暴かれる。しかも足は最早治っているのであり、にもかかわらず寝たきりでいるのは、その栄光の過去にすがっていたいからだし、他者にもそう見せたいからだ。このいじましさは、一見滑稽だ。しかしそれを笑うことはできない。過去にすがる熊田の心情は、誰しも理解できるからだ。そこに悲惨を見る。こうして熊田は、<栄光の革命家>という虚構を生き続ける。演技し続けるのだ。生きることは役割を演ずることであるという、つかの狙いは貫徹する。

出演者(左)武田義晴 (中央)吉田智則
(右)木下智恵

 私が久しぶりのつか作品を見て、懐かしく思ったことは、以上である。とにかく熱気に打たれた。つか演出の時は、もっと乾いた熱気だったように思うが、それでもなお最近の演劇にはない熱を感じた。出演者の武田義晴・吉田智則・木下智恵は、共に北区つかこうへい劇団の出身という。直接つかの指導を受けた体験を持つ。そして、つか演劇を見続けて演劇の世界に入ったという演出のマキノノゾミもふくめて、<つかチルドレン>の舞台だった。この舞台の背後には、つかこうへいがいたのだ。

 そしてもう一つ。役割を演じるということは、今では自明のことではないか、ということだ。職場であれ、友人たちとの間であれ、素早く自分の位置を認識し、振る舞いも言葉使いもそれらしくするというのが、当たり前になっていると思うのだ。「演技」は日常になっている。それだけ虚が広がっているように思う。だからこの舞台は、以前のような告発ではなく、より身近に感じられたと思う。