埋蔵文化財センター共催講座「関ヶ原の戦と三重の城郭」の事業報告

開催日
2022年11月19日(土曜日)
開催時間
13時30分から15時30分まで
開催場所
三重県生涯学習センター2階 視聴覚室、オンライン配信、
ハイトピア伊賀、名張市武道交流館いきいき
講師
竹田憲治さん(三重県埋蔵文化財センター)
参加者数
250名(会場受講71名/オンライン受講142名/伊賀サテライト会場10名/名張サテライト会場27名)
受講料
無料

今回のまなびぃすとセミナーは「関ヶ原の戦と三重の城郭」と題し、三重県埋蔵文化財センターの竹田憲治(たけだ けんじ)さんにお話しいただきました。
三重県埋蔵文化財センターが公開考古学講座「三重を掘る」として開催する年間講座のうち1回を、特別講座として三重県生涯学習センターと共催し、生涯学習センターをメイン会場に開催しています。

三重県生涯学習センターの会場の様子
オンライン、サテライト会場を含めてたくさんの方にご参加いただきました。写真は生涯学習センター会場の様子。

慶長5年(1600年)9月15日、美濃の国関ヶ原にて、徳川家康方(東軍)と石田三成方(西軍)が激突した関ヶ原の戦。

この戦自体はほぼ一日で収束しましたが、この有名な戦い以前に、何か月間も全国各地で前哨戦ともいえる戦いがあったことはほとんど知られていません。伊勢の国(三重)でも、津や松坂(松阪)、鳥羽など各地で戦が起こっていました。

関ヶ原の戦のあと、勝利した徳川家康によって大名の配置替えが行われ、日本の歴史は大きく動きます。同時に、三重の城郭にも大きな変化がありました。
関ヶ原の戦の前後で三重県内の城郭はどのように変わったかを、図面や石垣や発掘調査の写真を使いお話しいただきました。

関ヶ原の戦以前の石垣などが発掘調査で発掘されることもあり、三重の城郭の改修前の様子などが少しずつ解明されてきています。古い時代の石垣などが発掘された場合は埋め戻されることも多く、調査の時にしかその姿をみることができないので、チャンスを逃さないように発掘調査に関するニュースなどをチェックしてほしいとと締めくくられました。


オンライン・サテライト会場受講者からいただいた質問と回答

[質問]関ケ原後の領地の変動のところですが、本戦以外のところで三重県以外にも全国どこでも、ちまちました小競り合いが東軍・西軍別れて行われていてどうのような検分をもって論功行賞できるのでしょうか?細かな地域の信賞必罰がどうしてわかるのでしょうか?

[回答]論功行賞の内容については、まだまだ不明な点が多いようです。三重県内では所領構成の詳細すらわかっていないようです。(『三重県史』通史編 近世1 161ページ)


[質問]伊賀上野城他多数。伊賀上野城は筒井時代の石垣が出てきたとかありましたが、再利用はしなかったのでしょうか?築城最盛期(最先端)、領主の権威とかで新たに石垣を作ったのでしょうか?
同時期の三重県内の各大名によって、石垣の積み方に違いがありますか?愛知県や岐阜県、あるいは奈良県など隣接する地域とほぼ同じなのか、異なるのか?石垣を積む職人集団などが同じと考えてよいか、異なるのか、等々、さらに深く考えてみたいことがたくさん発見できました。

[回答]前の領主が築いた石垣を再利用することもあると思いますが、江戸時代を通じて修理を重ねていますので、筒井期と言い切れるのは発掘調査で見つかった石垣ということになります。
石垣の技術については、それぞれの大名が入手できる石材(花崗岩とか、砂岩とか)によって、積み方にかなりの違いがあります。伊賀上野城と津城の石垣には共通した部分があります(花崗岩を多く使い、算木積の長辺をかなり奥まで入れる)ので、これが藤堂の抱えていた石工集団の技術かもしれません。


[質問]松坂城の発掘された、蒲生氏郷公の石垣の場所を教えてください。

[回答]天守台の南、本丸下段のあたりです。


[質問]上野城、筒井期より更に前の平楽寺遺構の痕跡や出土品など手がかりが有ったりしますか?あるいは竹田先生自身としてはどのあたりと推定なさいますか?

[回答]上野城内から、室町・戦国期の石塔が出土しています。これらは平楽寺に関係するものであったのではないかと思っています。


[質問]野城が筒井定次から藤堂高虎に変わった経緯が知りたい。

[回答]『三重県史』通史編 近世1では、「家臣団内部の対立をまとめ切れず、統治能力を疑問視された上に、定次がキリシタンであったためともいわれる」としています(197ページ)。


[質問]大きな地震が来ると現在の石垣は崩れないが修復したり調査したところは崩れると聞いたことがあります(熊本城など)三重県内で同じようなところはありますか?松ヶ島城でも戦いがあったようですがどうでしたか?

[回答]亀山城でも、幕末(安政地震のあと)に修築した石垣が平成の地震で崩れたことがありました。修復した部分が崩れやすいのか、崩れやすい場所にある石垣なので、何回もの修復が必要なのかは、何とも言えないところです。
 松ヶ島城は、小牧・長久手の戦時に戦場となりましたが、関ヶ原の戦時にはすでに城としては使われていませんでした。


令和3年度三重県埋蔵文化財センター共催講座「本能寺の変と三重の城郭」の事業報告へのリンク

参加者の声

  • 関ヶ原の戦いのころに三重県内でどういう事があったのかがよくわかりました。石垣から時の流れが読み解けるの面白いです。見慣れた石垣もじっくり観察したいです。(会場受講者)
  • 県内全体に大きな変化や影響があった時代だったと知りました。現在の地図や地名なども随時出していただきイメージし易かったです。石垣のつくりも実際に見てみたいです。(オンライン受講者)
  • 関ヶ原の戦いはあまりに有名ですがその周りであった戦いはほとんど知られていない。今回はその知られざる三重の戦いの様子が学べて参考になりました。(サテライト会場受講者)