みえアカデミックセミナー2017 三重大学公開セミナー
「本能寺の変 ~新史料でなにがわかったのか~」
についての事業報告

開催日
2017年8月19日(土曜日)
開催場所
三重県文化会館1階 レセプションルーム
開催時間
13時30分から16時00分まで
講師
三重大学 教育学部 教授 藤田 達生さん
参加人数
211名
参加料
無料

「みえアカデミックセミナー」は県内の高等教育機関との連携で生まれた公開セミナーです。毎夏、三重県総合文化センターを会場に、各校1日程ずつ、選りすぐりの先生に少し高度な学習をわかりやすくお話ししていただいています。2017年度は新たに1校を参加校に迎え、全15日程開催しています。前身となる「みえ6大学公開講座」から既に20年を超え、「みえアカデミックセミナー」としては、14年目となります。今後も皆様に期待していただけるようなセミナーをお届けしていきたいと思います!!

第12回目の三重大学公開セミナーでは、教育学部 教授 藤田 達生さんを講師にお招きし、2014年に発表された新史料「石谷家文書」から、「四国説」とは何か、明智光秀が本能寺の変という危険な選択をとった理由、そしてそれらを通じて見えてくる「本能寺の変」が当時の国家論にとってどのような意義を持っていたのかについて講演いただきました。

歴史を学ぶ事は過去の失敗を学び現在に活かすことだと、歴史学の在り方についても語られました。

光秀の人脈
まず、本能寺の変のキーパーソンである明智光秀について、彼が何故本能寺の変に至ったのかを理解するためには周囲の人脈を知ることが重要だと語られました。
そして、光秀の人脈は美濃の地を基盤にしており、妹や娘が信長の側室や重臣に嫁いでることから信長と密接な関係を築いていた一方で、四国の長曾我部氏とも縁が深かったことを家系図にを基に解説していただきました。
そして、長曾我部氏との関係を踏まえた上で石谷文書を読んでいくと、長曾我部元親が光秀に対し、信長からの四国全ての領地を手放す要請を受け、このままでは敵対せざるをを得ないと光秀に訴えていたことが分かると説明されました。
このことから本能寺の変が光秀の単独謀反説は成り立たず、当時の複雑な人間関係や社会背景が関わっていると語られました。

本能寺の変とは?
そもそも、有名なフレーズ「敵は本能寺にあり!」は当時の常識から考えてあり得ないと否定され、戦国武将全てが天下統一を目指していたというのは完全にフィクションの話しだと語られました。その理由として、現代のサラリーマン全てが入社した会社の社長を目指すわけではないことに例えられ、ほとんどの武将にとっては領地や家臣・家を守る事を第一に考え、無謀な天下を争う戦いを起こすことは家族や家臣がまず止めるだろうという現代の私たちと変わらぬ考えをもっていたことを説明されました。そして、当時天下を狙っていたのは信長だけであり、本能寺の変とは分権国家から集権国家へと急激に変化させようとした信長の国づくりに対する光秀の反乱であったと説明されました。

歴史から見た室町幕府対織田信長
注意しなければならない点として、当時既に室町幕府が滅亡し、信長が政治の中心にいたように教科書などから想像しがちな点に触れ、これは明治時代の混乱期に資料が不確かな中、誤った歴史認識のもとに広まってしまった誤解であり、実際には当時の裁判記録などからも室町幕府は江戸幕府が誕生するまで存在し、武家のトップは足利義昭であったことが事実である語られました。そして、信長が統一国家(天下統一)を目指したことにより、安土政権(信長側)対室町幕府(足利義昭側)の
敵対状態に発展したことが、本能寺の変につながったと説明されました。さらに、光秀が信長を裏切り足利義昭に寝返ったように現代人は考えているが、足利義昭は当時の武家政権のトップである将軍であり、光秀は元々信長を使って幕府の権威を復活させようとしていただけで、信長が幕府政権の破壊に乗り出したために、クーデターを起こしたのであり、光秀の中では本能寺の変は裏切り行為ではなく、当然の結果だったと解説されました。当時の武士の常識では信長こそが謀反人ということになると説明され、信長が正しいという認識は現代人の考えであり、当時の常識ではないと説明されました。そして、書簡からは、光秀が本能寺の変を突然起こしたわけではなく、それ以前から幕府と関係を結んだ上での周到に用意された計画であったことが伺えると説明されました。

難しく敬遠しがちな古文書をわかりやすく解説され、受講者の方は熱心に講演を聴いていました。

織田政権の世代交代と専制化
四国はもともと三好氏と長曾我部氏が争っており、当初長曾我部氏は明智光秀を通じて信長と友好関係を築いていたが、
三好氏が秀吉を通じて信長に接近したことで状況が変わってしまい、信長が子どもたちや自分の側近が育ったため専制化に乗り出したことで、織田家中で派閥争いが引き起こされてしまった事も本能寺の変の要因の一つだとの解釈を話されました。秀吉は子どもがいなかったことが弱点のように捉えられることが多いが、秀吉が勢力を伸ばせたのは逆に子どもがいなかったことで信長の子どもを養子にもらうことができたからなど、信長の専制化に対し上手く合致したためだと語られました。

国替え
信長の専制化構想に伴う西国構想により、光秀は国替えを強制される可能性が高まり、このことで政治中枢から外され自身の派閥の解体が明白になったことが、本能寺の変の直接的な引き金となったのではないかと語られました。家臣が止めずに追随したことから本能寺の変が光秀の個人的な理由が原因の無謀なクーデターだったわけではなく、明智氏陣営の総意であったことが分かると説明されました。

派閥と権威
本能寺の変の前には、織田家の中でそれまでの重臣たちよりも近習が力を持つようになってしまい派閥争いが激化していたこと、織田家で華麗なる人脈を築き、それを解消することができず新たな派閥に対応できなかった光秀に対し、何も持っていなかった秀吉は近習たちにも上手く対応することができ、織田家の派閥争いに上手く対応することができたと語られました。そして、その派閥争いに対抗する意味もあり、光秀は長曾我部氏や足利義昭と協力してクーデターを起こしたのではないかと解説されました。

そして、信長が目指した天下統一とは自分に逆らう人間が存在しなくなる国家ではなく、全てを自分が差配できる統一国家を目指すことだったと説明されました。信長は鎌倉幕府以来の国の在り方を変えようとした哲学者・思想家であったと語られました。信長の国家戦略を経て、秀吉は信長の死を受け国の枠組みを変える事の危険性を理解し、国の形を変えず実質を変える事に成功したと言われました。信長は他に類を見ない逸材であり、光秀と秀吉は両者とも頭がよく、信長の行動を理解することができ、秀吉は理解できるゆえに信長を支えようとし、光秀は理解できるゆえに認めることができずに信長を倒そうとしたと語られました。そして、本能寺の変とは歴史的なロマンととらえがちだけれど、実は当時の社会情勢や複雑な人間関係に影響を受けた歴史的な出来事であったと語られこの日の講義を終了されました。

当日は200名を超える受講生の方が参加されました。
歴史を考える上で大切なのは当時の常識を考えることで、現代の常識で推し量ると間違った歴史解釈が生まれてしまうと説明されました。

参加者の声

  • 新たな資料に基づいた説明で、又熱意のある話しぶりで大変よく理解できました。楽しかったです。
  • 非常に感銘を受けました。「本能寺の変」の見方もさることながら信長、秀吉、家康への武家社会が国の在り方も考えたもの、信長は1000年に一人の思想家だったと言う考えはすごいと思わされました。ありがとうございました。
  • 難解な古文書をわかりやすく解説していただき目からウロコの連続でした。又の機会にこのようなお話が拝聴できれば幸いです。
  • とてもエネルギッシュな講演で、しかも歴史学のあり方や当時の常識をもとに、考えるべきこと明治政府のストーリーの中で当然のように考えていた歴史的出来事のとらえ方の問題点など、まさに「目から鱗」のとてもおもしろい講演でした。歴史に対する見方・考え方が一変しました。
  • 内容もとてもわかりやすく、本能寺の変の新しい文などを見れながら学べてとても新しい考えをもて、おもしろくきけました。また是非機会があれば講座を受けてみたいです。