上野千鶴子 講演会「ニキと私」

開催日
2024年9月14日(土曜日)
開催場所
中ホール

 三重県総合文化センター30周年を記念して開催した「ニキ・ド・サンファル展」に寄せて、ニキの大ファンと自称する女性学の第一人者、上野千鶴子さんに講演いただきました。ニキ作品の遍歴とその背景にあるニキの生い立ちや当時の社会背景、そしてニキとの出会いが上野さんに与えた影響など、たっぷりとお話しいただきました。その中から一部をお届けします!

鮮烈なデビューと射撃アート

講演の様子

ニキは若い頃、ELLEやVOGUEのモデルを務める美少女でした。そんなニキが、美術教育を受けたわけでもないのに、ある時、アーティストとしてデビューをした。その鮮烈なデビューが「射撃アート」というパフォーミングアートです。真っ白の石膏で塗り固めた像に、弾丸の代わりに絵の具を詰めて、バッキューンと銃を撃つたびに、ダダーっと、本当に血を流すようなアートです。ニキは「私はテロリストになる代わりにアーティストになった」と言います。「私は、絵が血を流して死ぬのを見たかったから撃った。」「自分自身に向かって発砲することで、社会と社会の不正に向かって発砲しようとした。」激しいですね。殉教者の聖人に矢を投げる作品もあります。副題は「聖セバスチャンまたは愛人のポートレイト」。男性にリベンジしたい気持ちが出ています。この時代の女の子たちには、妻になり母になる、という選択肢しかありませんでした。ですから、花嫁の彫像を作って、そこにおぞましい小物をいっぱいつけて、そこにまた絵の具を投げた。ニキは女の運命、女性の役割への嫌悪が強く「結婚した女としての義務の重荷を負って絶望の叫びを上げている」と言っています。世の中に対する憎しみから出発した人だっていうことがよくわかります。

ニキとの出会い:誘惑者としての娘、治療としてのアート

 私がニキと最初に出会ったのは、アート作品ではなく映画でした。『ダディ』という映画です。その中で、彼女は父への憎悪を爆発させています。この映画を見たときに私は愕然としました。「これは私だ」と思いました。私は父に猫っ可愛がりされたけど、でも、それは所詮ペット愛だと感じていました。自分の都合のいい時だけ可愛がる愛。私は父に愛されましたが、父を軽蔑した娘です。その娘の立場に、ニキも立たされました。父と娘の間に何か隠密な関係があったら
しいということを暗示する文章を残しています。
 ニキは後に、驚くべき告白をします。1994年、64歳になった時に『MON SECRET(“私の秘密”)』というタイトルの本で、『11歳の時、父は私を情婦にしようとした。』と書きました。今から考えれば、これは子どもの性虐待です。11歳の時から50年以上経って初めて告白した。そのぐらい長い間トラウマが残るのですね。それで、ジグソーパズルのピースがはまりました。そうだったのか。それが、彼女のずっと思春期から長きにわたる神経症の原因だったのか、と。彼女は、荒れ、暴れ、異常な言動をし、自殺未遂をし、精神病院に何度も入退院を繰り返し、自分を傷つけてきた。父による性加害は家族の秘密でした。加害者は「誰にも言っちゃいけないよ、言えば家族が壊れるからね」と被害者の口を塞ぎます。ですが、自分の体が完全に物にされ、所有され、強者のものになるというレイプの経験は、少女にとっては死です。ということをニキは
はっきり書いています。それを言うためにこれだけの長い時間がかかったのです。アートが彼女にとっての自己治癒の道のりだったという目で、もう1度、作品を見直していただいたら、なるほどとお感じになると思います。

「ナナ」シリーズから「タロットガーデン」へ

フレンテみえのナナ像と上野さんの写真

 そんなニキの暗鬱で攻撃的な作品が、陽気で明るい「ナナ」シリーズへと変身を遂げます。彼女の女友達が妊娠してやってきたその時に「はっ」と生命の讃歌を思った。それをナナと名付けました。ナナというのは、彼女の子どもの時の乳母の名前だったそうです。それで、命を守り、育むものとしての「ナナ」というシリーズが次々に出てきました。その1つがここ三重県総合文化センターにもあります。ニキの名前を知らなくても、子どもたちは大喜びですよね。みんなナナの真似をして、記念写真を撮るんだそうです。このはじけるような生命の讃歌、母体をおおらかに示す作品をニキは次々に作りました。やがて、彼女の好きないろんなアイコン、例えば蛇とかおっぱいとか、いろんなもので埋め尽くされた「タロットガーデン」という大規模な遊園地をついに彼女は作ります。自分が死んだ後にもこういうものが子どもたちのために残ってほしいと。イタリアのトスカーナ地方にありますが、私はまだ行ったことがありません。死ぬ前に1度でいいから行ってみたいと思っています。子どもたちには何も説明は要りません。ガーデンの中を大喜びして走り廻ります。

ニキとフェミニズム

舞台上に立つ上野さんの写真

 ニキが自己解放を目指したのは、ヨーロッパでウーマンリブが起きる前で、女性解放という言葉が人々の口に上るよりも以前のことでした。全く1人でこの道を切り開いてきたのがニキです。ニキが『ナナパワー展』を開催した2年後に、フランスで女性解放運動が始まりました。ポンピドゥー・センターの館長、ポンテス・フルテンは、この出来事を「芸術家が事件を予告した」と言います。フランスの女性解放運動の影響を受けてニキが作品を作ったんじゃなくて、ニキの作品が時代の変化を予感したんだと。ニキの晩年の作品、イラストの中にいろんな文字を入れる絵手紙のような作品の中に、いろいろな言葉にまじって、「フェミニズム」という一語がありました。私はそれを見つけたとき、嬉しくて。フェミニズムが登場した後になって、ニキは自分がやってきたことがフェミニズムだったんだと、自分で認めたんだって思いました。
 時代や歴史の中に、ニキの人生があって、これだけ花開いた結果を、私たちが今こうやって共有できる、目の前に作品を見て味わうことができる、本当に恵まれた、幸せな時代だと思います。あのニキの苦しみが、過去のものになってほしいと心から思います。

ニキと上野さんのエピソード

ニキは日本ともご縁がありました。彼女を日本に呼んだのは、ニキ美術館を作った日本で最大のニキ作品コレクター増田静江さんです。今から20年以上前、ある日突然、増田さんから電話がかかってきました。「上野さん、京都にニキを連れてくるのだけど、何かイベント仕込んでくれない?」って。それでイベントをやりました。
 私と増田さんがインタビューをして、ニキに喋ってもらう。300人の会場が満杯になりました。彼女は日本語がわかりません。でも、私、今でも覚えてます。彼女が話すと、英語が通じないはずなのに、会場の人たちは前のめりになるのです。そのコミュニケーション力はすごい。本当にカリスマ的な人でした。