第3回 母娘関係 娘役割からの解放と母役割からの解放

ジェンダー規範への適応が意味すること

 人間は人との関わりの中で、社会の影響を受けながら育つ。当然ながら、ジェンダー規範を身につけていく。ジェンダー規範に適応すれば、変り者とか常識がないとか言われることはないかもしれない。しかし、ジェンダー規範があることを知らず、自分がそれに適応していることを自覚せずにいると、知らぬ間に自分の人生を歪めてしまうことがある。
 ジェンダー規範では、力を持つこと、力をふるうことは女性にはふさわしくないとされている。他者優先を行動規範とする女性に許されているのは他者のための力、他者に尽くし、他者を支えるための力である。自分の利益や地位向上のために力を使うことを学ばなかった女性は、自分の人生を切り開いていこうとするときにも、自分だけのために力を使うことができない。他者に尽くす一方で自分の人生を他者に預けて生きていくこととなる。

女性の自己喪失

 ジェンダー規範に適応しきった女性は、他者の成功を自分の功績とすることでしか自分を評価できない。夫や子どもの社会的上昇のために全力を注ぎ、そのことで自分の満足だけではなく他者からの評価を得ようとする生き方がその典型である。彼らを応援することが自分の満足のためであるなら、彼らが失敗しても引き続き応援できる。しかし彼らの成功が自身の評価に直結していると、失敗を受け入れることが難しくなる。
 また自分の気持ちをケアすることなく年月を重ねてきた女性の中には、自分の気持ちすらわからなくなっている人も少なくない。結果としてあらゆる感情がジェンダー規範に合わせた形で知覚、表現されることとなる。たとえば女性には奨励されていない怒りの感情は不安として感じ取られ、不安として表現される。それと同様に、自分を認めてもらいたい、ケアをしてほしいという欲望や欲求は、世の中の不条理への嘆き、犠牲者としての苦痛や怨嗟として表出される。

「いい母」という評価

 自分で自分を評価できない女性は、自分が間違っていないことを重要な他者から認めてもらわないと安心できない。「いい母」という評価を与えてくれるのは、世間と子どもである。そのために、両者からの「いい母親」という賞賛と「幸せな母親」という保障とが必要となる。しかし世間の評価は、気まぐれで、立場と時代により簡単に変化する。そうした曖昧な基準に自分を合わせているうちに、女性はさらに自己を喪失していく。内的基準の喪失は外的基準、世間の基準へのさらなる固執を招く。そして周囲の非協力と不足を嘆き、自分が如何に苦労したかをアピールすることで、ケア役割担当の娘から賞賛と保障とを引き出そうとする。娘は、嫌悪や苛立ちを感じるとともに、いわれのない罪悪感さえ抱くことになる。
 この罪悪感が母娘葛藤から抜け出すことを妨げるのだが、これまで見てきたとおり、母親からの否定的なメッセージはこの社会のジェンダー規範に娘を合わせようとするものである。そして自分で自分の欲求をケアできない母親自身の問題である。娘が罪悪感を持つ問題でも、娘に原因がある問題でもない。簡単に気持ちが切り替えられるものではないが、罪悪感と自責にかられて、ジェンダー規範に適応することは、母親と同じ人生を歩むこと、言い換えるなら自分自身の人生を喪失していくことに他ならない。

不自由な関係から抜け出すために必要なこと ― 距離を置く

 関係を変えるのは、その関係に葛藤を感じている側である。母娘葛藤の場合は、娘の側からということになる。最初は娘の側から距離を置く。母に態度を変えてくれと願うよりも、娘の側で、自分が苦しくならないだけの距離を置く。このときの距離とは、物理的、時間的、心理的距離のいずれでもよい。家を出てもよいし、電話や会う回数を減らすのでもよい。日常の愚痴等を母に話すのをやめるというようなことでもよい。別の言葉で言えば、母との間に境界を引くことである。できる範囲で少しずつ始めていく。距離を置くことで、母親からあるいは周囲から責められるかもしれない。しかし娘が責任を取るべきは自分自身の幸せである。母の幸せは母自身に任せよう。これを「恩知らずの勧め」と言う。これまで従っていた母の価値観を捨てるために感じる罪悪感は自立のサインである。

母の眼鏡を捨てる

 娘は日常の細々したことから社会の理解まで母親の影響を受けながら育つ。結果として、母親が抱えている歪みをそのまま受け継いでいることも少なくない。受け継いだ歪みは、娘自身の自己イメージから家族イメージ、人生観、人間観、対人関係のありようにまで影響している。
 「母の眼鏡」で世の中を見ているような状態だが、娘が自分自身の人生を生きるにはこの眼鏡をはずすことが必要である。母という人と、その母と葛藤している自分自身とを、母に与えられた眼鏡をはずして、客観的な目で見ることを「相対化」と呼ぶ。相対化のためには、母について、自分について、そして母と自分との葛藤について、話す、あるいは文章に書くのが効果的である。当然と思っていた母の価値観とは異なる価値観との出会いと、自分の話に耳を傾けてくれる人の存在とが相対化を助けてくれる。

母を断念する

 全ての母が母なるもののイメージにあるように、静かにゆったりと全てを包み込み、癒し、愛し、慈しみ、惜しみなく全てを与えることができるとは限らない。できたとしてもできるときもあるというに過ぎない。全くできない母親もいるかもしれない。そうしたとき、与えられない人にいつまでも求め続けるのはやめ、持っている人、もらえる場所を探そう。世の中には、他の女性に惜しみない援助を与えてくれる女性はいくらでもいる。
 母からの干渉が強く、かつ子どものときの大きすぎる母親のイメージを払拭できない人は、母親に秘密の自分だけの世界を持とう。成長のためにも心の健康のためにも秘密は必要である。
 最後に母娘関係から抜け出すための必須アイテム。母親の悪口を言える仲間を持とう。母との関係の苦しさを理解してくれ、母と距離を置こうとしているあなたを励ましてくれる人。「それでいいよ」と言ってくれる仲間と場所を持とう。これは他の何よりも重要であり、これまで述べたことを可能にするためには不可欠のものである。

母親でもある女性のために ― 母娘関係を繰り返さないために

 母親ができることは、娘の成長に応じて手を引いていくことにつきる。この社会のジェンダー規範は脅しに満ちていて、不安でたまらないかもしれない。しかし娘には娘の人生がある。フリでいい。少々無理をしてでも、不安を抑え込み、娘自身に娘の人生を任せよう。これを「やせ我慢の勧め」と言う。そして娘を大切な他人として扱おう。親はしばしば他人にはしないような無礼や非礼を娘にする。これは娘をケア役割の担い手とみなしているだけでなく、どこかで自分が指導監督しなければならない存在とみなしているからだと思う。指導監督は今のままでは不十分な人に対して行うものである。困ったときに助けることと、困ったことになる前に口うるさく言うこととは全く違う。口にする前、行動する前に、同じことを他人にもするか点検することをお勧めする。最後に母親自身が自分を後回しにしないこと。子どもは不幸な親を置き去りにして幸せになることはできない。親自身が幸せであることが、娘の不足を指摘するよりも、ずっと、ずっと娘の人生を支援することになる。これまでの人生が、たとえケア役割ばかりだったとしても、自分の人生を諦めてはいけない。諦めると、諦めさせられたことに対する怒りと恨みが残る。不幸な人は不幸の道連れがほしくなる。娘を不幸の道連れにしないためにも、母親は自分の幸せと成長とを諦めてはいけない。

等身大の母と娘に

 母と娘がそれぞれに自分の人生を生き、お互いを尊重しあうとき、第一回で見た母娘の 4 つの象限の第一象限に相手を位置付けることができるようになる。相手を認めるとは、相手に何の問題も欠点もないと思うことではない。欠点も問題も含めてその人であり、それを変更するのもしないのも、その人の自由だとする姿勢である。そうした姿勢を持つには、まずは問題も欠点も含めて自分自身を受け入れることが必要である。母に否定ばかりされると感じている娘は、自分を否定する声から一時身を引きはがして自尊心を育てよう。簡単なことでは傷つかないほどに自尊心が育てば、これまでとは違う等身大の女性としての母親と出会えるかもしれない。